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「信じられて救われる」20210307
「信じられて救われる」20210327
聖書 Ⅰコリント 十五章一節~五節
ある人が言っておりました。歯医者の椅子に天井を向いて座っていた時に、情けなく大きく口を開けて、自分はいったい何をしているんだろう、と思ったんだそうです。しかし、その人は発想を転換しました。
そして、この地球を私一人が背中に背負っているのだ、と発想したんだそうです。それで気持ちが落ち着いたようです。
奇想天外な発想だと思うでしょう。しかし、宇宙論的に考えると、でっかい宇宙に浮かんでいる一人の人間と地球全体が重力によってくっ付いている、とも言えるんですから、あながち間違いではありません。
よいたとえ話じゃなかったかもしれませんが、要するに、発想を転換することは、重要だということです。
あたりまえだ、と考えていたことや教えられたことがそうじゃなかった、ということがいっぱいあります。感覚的なことも、事実とは異なっていることが多いものです。
地に足をつけて生活する、ということはよく言われることですし、必要なことだと考えております。けれども、地震を経験しているぼくたちは大地さえ大きく動くことをよく知っています。
平地に立っている時には、大地は真っ直ぐに広がっていると思いますけれども、高いところに登って周りを見下ろしただけで地球が丸いことを認識できます。
地球の周りを太陽や月や星が回っているのだと思っていたけれども、地球が太陽の周りを回っているのだということが証明されたので、そのことを疑う人はいないのですが、体感的には太陽が登ったり沈んだりしていると思えるんです。それはそれでいいんですけれども、観測衛星を打ち上げようとすれば、体感的にではなくて、科学的な事実を基に計算しなければなりません。その違いを知っておくことは重要です。
【異なる立場がある】
さて、ぼくは、十六歳の誕生日にバプテスマ(いわゆる洗礼)を受けて、いわゆるクリスチャンになりました。二十歳から東京都国立市にあった東京キリスト教短期大学に四年間在籍し、続いて福岡の西南学院神学部に三年間在籍した後、札幌市豊平区の平岸バプテスト教会の牧師として招聘(しょうへい・まねかれ)されて、そこで八年間牧師でした。そこを辞めてから約十五年間は教会の牧師以外の仕事をしてから、二〇〇五年に現在の西野バプテスト教会に牧師として招聘されて、牧師職に復活してから今年の春でまる十六年になります。
牧師としての経験年数は二十四年程度ですから、年齢の割には少ないのです。この間に、教会組織を発展させることに尽力してきたとは言えません。たぶん、多くの牧師が、信者を増やすことを目的に仕事なさっていると思いますが、ぼくはそうではなくて、キリスト教の伝統的な慣習に囚われて窮屈な信仰生活をしている信者さんが、自由な信仰生活をしていただくためのお手伝いしようと思っていただけです。
なぜ、そのようなことを考えたかというと、ぼく自身が、かつてはキリスト教の慣習に囚われていたからです。そこから少し自由になった嬉しさを伝えることができれば、けっこう窮屈(きゅうくつ)そうに見えた信者さんたちが元気になって、閉塞感があった教会が、地域や信者の周りのひとびとに広がって行くだろう、と安易に考えていたからです。
そのためには、みなさんが大切にしておられる聖書を、しっかりと読んで、そこで教えられていることをみんなと共有していけばいいはずだと考えていたので、当時の力量で、教会のみなさんと聖書を読んできたつもりです。
聖書を大切にする、という言葉においては教会の信者さんと一致していたんですが、それがうまく機能しなかったのは、聖書に対する姿勢が、まったく異なっていたからです。
【聖書にたいする立場も二つある】
いわゆる神学には大きく分けて二つの立場があります。
ぼくは、東京キリスト教短期大学では「聖書は誤りなき神の言葉である」と教えられ、福岡では「聖書は人が書いた文書の集合体である」ことを認識できるように聖書の読み方を教えていただきました。
立場の異なる、これら二つの学校で学ぶことができた結果、「聖書は神の言葉であって誤りがない」という神学に反論できなかったぼくは、「聖書は人が書いた文書の集合体である」と言えるようになったんです。
現在のぼくのような聖書解釈や過激な説教が恩師に迷惑をかけないように願いつつ、一言だけ言わせていただきます。それは、今の聖書の読み方に開眼させてくださったのは、当時西南学院大学神学部助教授として、ぼくの修了論文のメンターをしてくださった青野太潮先生です。
西南学院の同期やその後の卒業生にしても、いま活躍している人たちは、「聖書は誤りなき神の言葉である」とまでは考えていないでしょうが、ほぼ神の言葉であると考えているように思えます。ですから、ぼくのような牧師ができたのは、決して青野先生の責任じゃない、とご理解いただけますようにお願いいたします。
ぼくがいま言えることは、「聖書を神の言葉」として受け取る立場と、「聖書を人の言葉」として受け取るという二つの立場があるということ、そして、「聖書を神の言葉」と受け取る人びとは大まかに言って、伝統的な教会の歴史を大切になさっている、ということです。
ぼくが最初に赴任した教会は、戦後日本の急速なキリスト教布教の波に乗って建てられた教会でしたので、伝統的な聖書解釈や伝統的な教会組織運営を教えられて来た信者さんばかりでした。
伝統的と言えども、聖書の記述と整合性のない解釈に囚われていることが多いと思ったので、信者がそれまで教えられていなかった聖書解釈によって、信者がいわゆる伝統的な固まった解釈から解放されて、元気になり、教会活動が楽しく成長することを望んでいました。けれども、教会の伝統的な教えの力はすごく強かったのです。一度は解放されても、周りからいろいろ言われると、すぐに元に戻ってしまうことがほとんどでした。しかも、教会の信者に入れ知恵をしたのは、近隣の教会の牧師さんたちでした。若い牧師が伝統的な教えに沿わない指導に不安に抱いた信者さんたちが中堅の牧師さんたちの意見を訊いたからそんなことになったことは否めません。
とにかくそのように、教会の中で、中心の存在である聖書に対しても、異なる立場があって、それによって、することが具体的に違ってくるというのが現実です。
【福音が二つある】
さて、聖書を読む立場によって異なってくることに「福音」があります。福音を伝えるのが教会の勤めである、と言っているわけですから、聖書を読む立場によって、福音が異なってしまう、ということになれば大変です。しかし、実際に、イエスが伝えた福音と教会が伝えてきた福音が異なっている、という現実があります。この事実を、明確に理解していなければならないとぼくは考えています。その区別をしっかりおこなってこなかったから、福音を基礎にして建て上げているはずの教会がぐちゃぐちゃになっている、とぼくは分析しています。
教会はイエスがメシア(キリスト、救い主)であると告白しています。その告白内容を福音として伝える作業をしています。
すなわち、全ての人の罪を神に赦してもらうためにイエスは自分からすすんで犠牲の供物なった。そのために、十字架につけられ殺される道をお選びになった。それゆえに神は、イエスを見捨てておくことをしないで、三日目にイエスを復活させてくださった。このような内容が教会の伝えている福音です。
教会のこの福音を信じ、自分の罪を告白し、悔い改めて、バプテスマを受けた者は救われて永遠の命にむかえられる。そのように教会は教えて来ました。ですから、教会の福音には多くの人の罪の身代わりになったイエスの十字架による死と、復活が込められています。ここから判りますことは、教会の福音はイエスの事件とイエスの生涯が終わった後に教会が編み出したものであることは明らかです。
これが福音だとすれば、イエスは自分の死と復活を自覚していたことになります。キリスト教の教えでは、ほとんどそのようなことになっております。
確かにイエスは「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われたようです。しかしその時点でイエスが語った「福音」という言葉の中に、ご自分が十字架で殺害されることと三日目に復活させられることが含まれていたとは考えられません。ですから、教会が伝えた福音と
イエスご自身がお伝えになった福音が同じものであるはずありません。イエスの福音と教会が語る福音は明らかに別物だと言えるはずです。
教会は、教会の福音を信じる者は救われる、と言います。しかし、本当でしょうか。教会の福音が完成していなかった時にも、イエスがお伝えになった福音によって、すでに救われた人がいたことを福音書は証言しています。イエスご自身が伝えた福音は言葉だけじゃなくて、マルコが福音書全体を通して示しているように、イエスの生き様そのものです。
【信じるのではなく信じられて救われる】
イエスに救われた人々は、福音を信じるように要求されませんでした。「信じる者は救われる」とはよく聞く言葉ですが、信じるというのは難しいことです。難しいことをする必要はないんじゃないでしょうか。
信仰とは受け入れ合っている関係状態のことだと、信仰という言葉を勉強させてもらって、ぼくは判りました。信じるということは信じ込むことじゃありません。信じるという言葉を言い換えれば、相手をそのままで受け入れることなんです。肉体的にも精神的にも問題をかかえている人を、イエスはそのまま受け入れなさいました。自分を信じなければ癒してあげないなどとイエスは言っておりません。そうだとすれば、イエスに出会った人々は、イエスを受け入れたから救われたんじゃなくて、「イエスに受け入れられたから救われた」んです。
【ぼくたちは】
事実に則さない教義を埋め込まれて来ましたから、それらを取り外した上で、できるだけ事実の情報に則って発想を逆転してみましょう。
教会が伝える福音を信じなければ救われないと教会は言ってきました。けれども、ぼくたちはそうではなくて、「あなたはそのままで受け入れられている」と言えばいいだけなんだと思います。あなたは、このイエスの福音に自分を委(ゆだ)ねればいいだけです。教えられたことをそのまま信じ込むなどという難しいことをする必要はありません。イエスを初めとして、あなたを受け入れてくれる人がいれば、いや必ずいます。それだけで、あなたは救われています。ただそこに身を委ねるだけでいいんです。