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「望みを自分で実現する」20230910
「望みを自分で実現する」20230910
イエスは他人から勝手に評価されていました。出生が判らないために、どこの馬の骨かわからないと扱われていました。マタイはその事実を逆手に取って、マリアが天から授かった命だと上手に表現しましたが、当時の人々はイエスを、低い階層の出身者だと馬鹿にしていました。
そんなイエスに仲間だけが高い評価を与えたのでしょうか。良い評価と言いましても、民衆を導くメシア(キリスト)などと評価されても、困ります。そこまで行くと、評価というよりも、神輿(みこし)に乗せられて祭り上げられたようなもんです。「あなたはメシア(キリスト)、神の子です」とペトロから告白されたイエスは、ペトロの告白をキッパリと拒絶した、とマルコは伝えています。しかし後の教会は、イエスの本音に逆らって、イエスを「メシア(キリスト)、神の子」へと祀り上げたのです。これは、イエス本人を無視した他人の評価の押し付けです。イエス自身は自分がメシアであるとか神の子だと言いふらしてはいません。自分の意図に反して神格化までされたイエスには迷惑な話しです。
教会がいくら図々(ずうずう)しくても、イエスが神そのものであったと告白することは当時の社会状況が許さなかったのでしょう。初期の教会は、イエスをメシアだと告白しました。しかし、後の教会は、人類が経験したことのない復活を成し遂げたということを理由にして、イエスを神の子にまで祀り上げました。
イエスが望んでいたのは、宗教的社会によって罪人だと評価されている人に、他者の評価を、そのまま認めないで拒(こば)まなければならないというメッセージを伝えることでした。
成功した人は神によって祝福された善人で、失敗した人、うだつの上がらない人、障害者や病人は罪人だ、と世の中は評価します。しかし、このような社会常識を、イエスは否定しました。イエスは世の常識をなぜ否定できたのでしょうか。
先ほども言いましたように、結婚していない乙女から生まれたこと、父が誰かわからないこと、権威が認められた特別の教育を受けていない肉体労働者であること、など、誰から見ても罪人として差別される立場であったのです。しかしイエスは自分ではそう思えなかった。たとえ罪人だと評価されようとも、他人の評価を認めなかった。イエスが偉かったのはここです。
【誰が評価したのか】
民衆を差別する支配体制を生み出したのは宗教家や政治家です。神の名を利用して神の命令だと言うけれども、人間が作ったシステムです。
神にせよ仏にせよ、超越した存在について人は説明したがりますけれども、自分が理解していない絶対者を登場させることこそ宗教家の欺瞞(ぎまん・あざむくこと)です。自分たちの身分を保証させるために、証明も規定もできない神を登場させるなんて、愚かにも程(ほど)があります。
このような宗教論理の矛盾に気づいたイエスは、他者に評価されることから離れて自己肯定できる人になったのでしょう。
ハッキリしている嘘は簡単に見破れるのに、なぜ宗教家の教え(嘘)が罷(まか)り通っているのでしょうか。常識を超える不思議な存在がいてほしいと考える人が多いからでしょう。嘘は大きいほど信頼されやすいと言われています。
全ては神によって、作られ、運営され、最終的に精算される、とわからないことをまるで現実に経験したかのように表明するのは嘘つきです。宗教は乗り越えられない矛盾を内包しています。これに気付けばいいだけです。
【差別される謂れはない】
さて今日の物語に登場する女は病人だということで、宗教組織からも周りの人々からも罪人だと決めつけられていました。
十二年間も病気で苦しんでいた女は、まるで神に呪われた者ででもあるかのように扱われてきました。こんな症状を持つ女は、宗教的に穢れているとされ(レビ記十五章)、他人に触ることさえ許されていませんでした。医者にかかっていたと言いますけれども、医者も触れられなかったはずですから、どうしたんでしょうね。検査技術もない時代ですから、外傷を治すようなわけにはいかず、病状は改善しなかったのも当然です。
成果が上がらないにも関わらず、保険のない医療費は非常に高額です。十二年間も医者にかかった女はかなりの資産を持っていたにも関わらず、全てを騙し取られただけでした。
【他人を当てにするのはやめた】
ここまで追いやられて、誰も当てにできないことを悟った女は、噂に聞くイエスに、自分から触ることに決めて、群衆に紛れ込み、無理矢理、望みを果たしました。女は、タブーを乗り越え律法を犯したのです。人混みの中の女は周りの人々に触れざるを得ません。それがバレたらどんな咎めを受けるか知れません。それを承知の上で、女はイエスに触りました。
それに気づいたイエスは、振り向いて誰が触ったのかと群衆に問いかけます。
何があったのかは判りませんが、自分に起こった出来事に恐れを感じた女は、イエスの前に進み出て、自分の体験したことをすべてイエスに話しました。なんとふしだらな不浄なことをしたのか、とイエスは女を叱りませんでした。それどころか「良かったなあ」と言わんばかりに、「君の信仰が君を救った」と女に言ったのです。
罪の女というレッテル付きの女のどこにも、いわゆる信仰と呼べるものはありません。それなのに「君の信仰が君を救った」とイエスは言ったのです。周りの人々にもはっきり聞こえたでしょう。女に何も求めず「救い」を宣言したことで、イエスは女を社会の一員に復帰させたのです。
【ぼくたちは】
背に腹は変えられない状況であったにせよ、女は自分で差別を乗り越え、律法の縛りを超えてイエスに触ったのです。
この一連の行動をイエスは「君の信仰」と呼んだのです。信仰とは受け入れ合う状態のことです。
イエスに希望を託してイエスに触れた女をイエスはそのまま受け入れたのです。
女はイエスから差別されず、イエスに受け入れられたことによって、神を持ち出す宗教屋が指導する社会から受けてきた謂(いわ)れなき差別から解放されたのです。
ぼくたちの誰も、謂(いわ)れなき差別を受け入れたままでは幸せになれません。嘘を見破り差別を乗り越えて、本当の自分を取り戻しましょう。