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「とり込んでみる」20210131
「とり込んでみる」20210131
聖書 マタイ福音書 五章四十三節~四十八節
よく知られているイエス・キリストの有名な言葉って何でしょうね。「敵を愛しなさい」という言葉は、間違いなく、有力な候補の一つになっていると思います。
【突拍子もない言葉】
「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、『ぼくは言う。敵を愛しなさい』」そんな突拍子もないことをイエスは言いました。有名な言葉ですけれども、その通りに実行しようとする人はいないようです。一月に連続で話しているマタイ福音書の五章には、出来そうに無いことばかり書かれているように感じますが、中でも「敵を愛しなさい」という言葉は、特に受け入れがたいですよね。しかし、受け入れがたいからこそ、有名になったんです。
もしも「敵を憎め」と言ったのなら、誰もが感じる当たり前のことで、隣のおっさんでも言えます。命じられる必要もありません。誰でも言い得る言葉を言っても有名になれません。やっぱり、イエスは「敵を愛しなさい」と本当に言ったんだと思います。
「右の頬を叩く者に、左の頬をも向けてやれ」という言葉と同様に、誰も出来ないと思うでしょう。アホくさく思えて、だれも真剣に考えようとしないと思います。
しかし、ここも教会ですから、イエスが意味なくこんな言葉を言ったわけじゃないと考えて、真剣に取り上げてみることにしましょう。
【敵って誰のこと】
「敵を愛する」なんて、できるわけないよ。と当たり前のようにみんなが思うでしょう。しかし、そうなんでしょうか。
逆にぼくが問いかけたらどう答えますか。
問い一
「『敵』って誰のことですか」
いやいや、慌てて答えないでいいんですよ。「○○に決まっている」と答えたりして、諍(いさか)いが起こったら困りますからね。言わないでよろしいですよ。
問い二
「愛する」ってどう言うことでしょう。皆さんはどうお答えになりますか。返答に困るでしょう。実際は解らないことばかりです。
言葉の意味が判っていて反論するならいいんですけれども、そうじゃありませんよね。解らないままで、「そんなこと絶対にできない」などと結論を出すのは早過ぎます。
今日の聖書の箇所では「迫害する者のために祈れ」と続いておりますから、敵というのは「迫害する者」のことだと言えます。キリスト教徒が迫害されることを前提にしているのだとすれば、イエスご自身の言葉じゃなくて、後に加筆された言葉だと感じるので、ここは取り上げません。
何はともあれ、「敵を愛しなさい」と言ったのは事実でしょう。こんなことをいうのは、イエスぐらいのもんです。
【「敵を憎め」は聖書にない】
さて、「敵を憎めと命じられている」という言葉が、当時一般に通用していたように描かれていますが、実のところ、旧約聖書にこのような命令はありません。
岩波書店のマタイ福音書の注には「同種の言葉はクムラン教団の文書にある」と書かれています。しかし、自らそのように名乗った教団があったわけじゃありません。
二千年ほど昔の古文書が一九四七年ころに、死海の北西にあるクムランという地名にある洞窟群で発見されました。壺に入っていた古代の写本は死海写本と呼ばれ、ユダヤ教のエッセネ派と呼ばれている人々の一派が残したものだと考えられています。この場所名からクムラン教団と呼ばれているだけです。
そこに残された文書の中に「敵を憎め」という言葉があるらしいですが、現在の聖書の中にはありません。細かく調べていくと解らないことばかりです。
【仲間の中にも敵がいる】
先ほどね、ここも教会ですから「イエスの言葉を・・・」と変な言い方をしました。どうしてかと言いますと。ここを教会だと認めていない人もいる、と思うからです。
伝統的な教会の教え(教義)を、そのまま素直に教えるのが教会だとすれば、そういう意味では、一般的な教会じゃないと受け取られてもしょうがありません。
教会の体裁を見せながら、伝統的な教会の教えに反することを教えている、と判断する人にとっては、仲間の教会じゃなくて、「敵」にさえ映るかもしれません。そうすると、一応キリスト教会を名乗っているにもかかわらず、教会の敵だと受け止められることもあり得る、ということです。
しかしですね、不思議な現象じゃないんですよ。落ち着いて周りを見ていただくと、世の中、そんなことで満ちているのが現状です。
日本の政界を見ましょう。建前は、みんな日本を良くしたい。国民の生活を豊かにしたい。国民を守りたいとおっしゃいます。
このような言葉を並べておけば誰も反対しないからでしょう。しかし、そのために具体的な活動をする段階になると、てんでバラバラの意見が吹き出して、意見が合わない相手を、まるで「敵」のように罵(ののし)り合うんですよ。恐いですね。
同じ民族でも、敵対関係になることもありますし、家族の中でも敵対関係になる場合もあります。いやいや、誰が「敵」だと言わないでいいですよ(笑)。
「敵を愛しなさい」と言われても、まずもって「敵」が何なのかということさえはっきりと定義できない、というのが事実です。
この頃あまり聞かなくなりましたが、日本にも「昔の敵は今日の友」という言葉があります。同じ人が友にも敵にもなり得る、ということを教えています。
人という存在は同じであるにもかかわらず、敵にもなれば友にもなるということです。変わる可能性がある、ということです。
相手が変わることばかりを望む人が多いんですが、この言葉は、相手や自分の存在が変化することを意味していません、そうではなくて、関係が変わる可能性がある、と教えているんです。
実は、流動的な関係の中でぼくらは生活しているんです。
何度も言っておりますが、聖書の中の重要な言葉は関係の状態を表現していると言うことができます。
殺してしまいたいような相手を敵というんでしょう。しかし、敵対関係にある国の誰かに助けてもらったという実話も珍しくありません。「敵」も「愛」も、絶対的なもんじゃありません。敵が友になり、友が敵になる、という事実があるということから、イエスが教えた言葉も、絵空事じゃない、と判っていただけたでしょうか。
自分や相手の存在そのものが変わらなくても、関係は変わり得るんです。ここに、救いがあるんじゃないでしょうか。そういう、可能性に積極的に働きかけるのがイエスの生き方であったように思います。
隣人が誰かも判りませんけれども、とにかく隣人を愛し、敵を憎め、というのでは変化が望めないんですけれども、イエスのように、「敵を愛せよ」という姿勢は、関係の変化を期待させる言葉です。
なぜそんなことまでしなければならないか、と訝(いぶか)るかたが多いと思いますけれども、それは、常に自分こそが正しい者のように思っているからでしょう。
【敵とみなされなかったパウロ】
パウロは、「わたしたちがまだ罪びとであった時、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ローマ書五章五節)「敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」(同十節)と告白しています。パウロは自分が働きかけられたのは、敵対していた時だったという強烈な実体験を持っていました。自分に敵対する者を敵にしない方がいる、とパウロは言います。ということは、パウロが勝手に理由なく敵対していたのだ、と告白しているんです。
イエスは「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ五章四十五節)と言いました。自然現象に善も悪も関係ありません。
なぜあの人にも太陽が昇るのか、と言い得るのは、自分に太陽が昇ることは当たり前だと思っているからでしょう。ところが現実には、たとえ敵であっても、悪人であっても、正しくなくても自然はそんなことを理由に人を差別しません。
【敵を抱え込む】
もう十数年前のことです。ぼくは北海道バプテスト連合の総会議長をしたことがあります。前年に副議長をした人が議長になるという慣習がありましたから、当然、その前年度の総会副議長をぼくはしたのであります。今はそのような役に選ばれることはあり得ません。実は、その時代でも、総会の成り行きのままに任せておけばあり得ないことだったんです。では、どうしてぼくが副議長になったんでしょうか。答えは簡単です。立候補される方はいますか、と問いかけられた会場で、誰も応答しないのを見て、ぼくが立候補したからです。
岩本さんの立候補は認められません、と言えるほどの人も、反対票を投じることができるほどの人もいませんでしたので、次の年の副議長に選ばれました。ということは、その次の総会では議長になるということです。
選ばれた時のスピーチで、ぼくははっきり言いました。「皆さん、うるさい人じゃなくて、従順な人を選ぼうとなさいますが、そうではなくて、一番うるさいと思う人を執行部側に入れればいいんです。執行部が提出した議題に、総会の席上で議長が質問したり意見を述べたり、反対することはできないでしょう。」この言葉どうりではありませんが、内容的にはそのようなことを言ったんです。
敵を避けようとするのが常ですけれども、避けていては敵対関係は残り続けます。だから、避けようとするのではなくて、敵対していると思える者を取り込んでいくことが重要だ、ということです。これは前に勤めていた団体の理事長から伝授されたことです。
【ぼくたちは】
都合の悪いものを全て敵だと見なす考え方を変えた方がいいと思います。ウイルスは殲滅しなければならない敵であるかのように言った人がおりますけれども、殲滅(せんめつ・皆殺し)できる相手じゃありません。面白いことに、人の遺伝子の中にウイルス由来の部分があるのだそうです。ウイルスも共生生物のようなものかもしれません。そうだとすれば「敵を愛しなさい(受容しなさい)」とおっしゃったイエスの言葉はあり得ないことじゃなくて、太古から実際に行われてきた生き方だったと言えます。「できるはずがない」と馬鹿にするんじゃなくて、実生活の中に取り入れてみてもいい考えだと思いませんか。