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「悔い改めなんか求めません」20220522
「悔い改めなんか求めません」20220522
聖書 マルコ 二章 十七節
ル カ 五章三十二節
長年、腑に落ちていなかったキリスト教の教義に対して、近頃になって、ようやく、平気で異議を呈することができるようになりました。
先週も言いましたように、イエスが本当に伝えたかったこと(イエスの福音)と、キリスト教会が伝えて来たこと(教会の福音)は異なっています。これは、教会の中で聖書を読んで説教しているぼくにとっては大問題ですので、何とかしたいと努力している最中です。
このようなことを一緒に考えてもらうためには、まずイエスが何をなさったのかを、しっかりと共有しておかなければなりません。
イエスがなさった活動を知る方法は福音書が記録しているイエスを見るしかありません。とは言え、現在の聖書には福音書が四つも収録されています。しかも、福音書の著者によって強調点も異なっておりますから、イエスの活動の真髄を理解するのは容易ではありません。
キリスト教の教義(きょうぎ)を信じている信者は、四つの福音書に記録されているイエスは同じだと思っています。もちろんそう教えられているのですからそれしか考えられないのは判ります。しかし、それぞれの福音書を四つの文書として読めば、著者の視点がかなり異なっていることが判ります。当然、それぞれの文書が示しているイエス像もかなり異なっているのです。
「文書として読む」という表現に嫌悪感を抱く信者は多いでしょう。けれども、時代や場所など異なった背景を持った複数の著者が書いた書物が統一した内容を示しているはずありません。異なったイエスが示されているからと言っても悲観する必要はありません。異なっているからこそ考えながら読んでよいという、読者の自由が保障されているとも言えるのです。
「聖書は神の言葉であって、誤りがない」とキリスト教教義には書かれていますけれどもこんな短い言葉で信者の考えをひとまとめにしようとするのは、全体主義のようで気持ち悪いです。
四つの福音書の著者は、それぞれの意図を持って、他の福音書に対立する事であっても、自分の信念を持って書いているのです。これほど分厚い聖書を持ち上げて「聖書は神の言葉であって、誤りがない」とか「聖書は一つの真理を示している」などと主張するのは、聖書全体に対する侮辱です。むしろ、違いを認めるように読むほうが、聖書に対する誠実な取り組み方です。
こんなわけで、イエスがなさった事や本当に伝えたかったこと、イエスの活動の真髄を知ることは、簡単にできません。困ったもんです。
【福音書は後で書かれた】
イエスの行状を知るには、福音書に頼るしかないと言いましたけれども、これがまた初めからあったもんじゃないので、課題が増えます。
イエスは何も書き残しませんでした。しかも最初に書かれたと言われるマルコ福音書でも七十年代、どんなに早くても五十年代以降に書かれたものです。
使徒言行録には、イエスの死後しばらくして、弟子たちが中心になって教会ができたように書かれているのですが、これはルカ福音書(八十年ごろ)の続編のようなものですから、著作年代が九十年ごろだとすれば、イエスの生涯に、年代的に肉薄できるものはないというのが現実です。
新約聖書の中で書作年代が最も早いものはパウロの手紙類であって、それらが五十年前後であることを知っている信者は少ないようです。最も古い著作が、ユダヤ教徒からキリスト教徒に転身したパウロの手紙であって、それにしても、イエスの十字架から二十年ほども経っているというのは驚きでしょう。正直なところ、ぼくも初めて聞いた時には驚きました。
とにかく、パウロが教会宛の手紙を書いた頃には、二十年近くの歴史を持ったエルサレム教会があったことは確かです。
【確かに間違いもある】
パウロはエルサレム教会に相談なく許可も受けずに異邦人伝道を始めた人ですから、イエスの弟ヤコブなどのエルサレム教会の重鎮たちと確執(かくしつ・互いの意見をゆずらない)があったようです。その経緯(いきさつ)は使徒言行録にもパウロの手紙にも記録されていますが、パウロ本人の主張と、数十年後のルカの記録にはズレがあります。意図的か勘違いなのか判りません。いずれにせよ、聖書が「間違いのない神の言葉」でないことは確かです。とにかく、そんなもんです。「聖書を真摯(しんし・まじめでひたむき)に読みます」と告白するならばすばらしいと思いますが、「聖書は間違いのない神の言葉です」という教会が作った信条を信じることは止めた方がよいでしょう。
【イエスの言葉の見比べ】
さて、最後になりましたけれども、伝えられているマルコとルカの福音書に記録されているイエスの言葉を見比べてみましょう。
マルコ二章十七節には「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と書かれ、ルカ五章三十二節には「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と書かれています。
「悔い改めさせるため」という言葉をマルコが省いたのではありません。著作年代を考慮すれば、ルカが、この言葉を付け加えたのです。
たとえそうだとしても意味はあまり変わらないからいいだろう、と思う人がいるでしょう。罪人は悔い改めなきゃならないものだと教えられて育った信者が、イエスは罪人を悔い改めさせるために来たのは当たり前だと考えるのも無理ありません。しかし、それほど簡単に済ませられることじゃありません。
イエスが一緒に食事していた徴税人レビやその仲間たちを「罪人」であると決めつけているのは誰でしょうか。マルコの物語によると「どうして彼(イエス)は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(十六節)と弟子たちに問いかけているのはファリサイ派の律法学者です。これに対してイエスは「罪人を悔い改めさせるために来た」などと言いません。他の病人たちを癒す記事においても、マルコのイエスは悔い改めを要求しません。
罪人という呼び名は、律法学者たちのような宗教家たちが偏見や差別のために庶民に貼り付けたレッテルです。そういう意味では、イエスも罪人のレッテルを貼られた人です。そんなイエスがレビの仲間たちに「悔い改めるべき罪人」のレッテルを貼ったとは思えません。律法学者たちと同様に、罪人は「悔い改めさせるべき者だちだ」などと信じ込んでいたのは、イエスの言葉の真髄を理解出来なかったキリスト教会の指導者たちでしょう。
【ぼくたちは】
罪人の烙印(らくいん)を押されていた人に何の努力も行動も求めずに赦しを宣言したイエスの立居振る舞いを思い起こせば、罪人扱いされていた人を、イエスはただ招くために来たのだと判るはずです。教会は「罪人よ、悔い改めよ」などという昔の教会教義に縛られた宣教を止めて、罪人扱いされている人を無条件で招いているイエスの言葉を大切にする人々の集まりになる必要があります。なぜなら、それこそがイエスの福音を大切にすることだからです。