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「イエスはマリアとヨセフに守られた」 20191208

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「イエスはマリアとヨセフに守られた」2019年12月8日2019

聖書 マタイ 一章十〜二十五節

 

【系図の中のマリア】

 マタイによる福音書の最初に記録されているイエスの系図に登場する女たちの最後がマリアです。というよりも、マタイは、マリアのために女たち四人を登場させた、という方がてるでしょう。

 これから紹介するマリアの物語を受け入れやすくするために、女たちの物語を、一つ一つ思い出させようと、マタイ福音書の著者は、いくつも布石を打っておいたんでしょう。

 しかし、マリアについては、今までの女たちと決定的に違うことがあります。それは、マリアに子供を産ませたのが誰かわからない、ということです。そのために、アブラハムから続いてきた父系は、ここで完全に途切れています。

 ヨセフが父でない、と言った途端に父系は途切れてしまいます。にも関わらず、マタイは、ヨセフがイエスの父ではない、ときっぱりと伝えております。アブラハムから父系の名を連ねてきた系図は意味ないじゃないか、と言いたくなります。だからこそ、イスラエルの伝統を伝えるこの父系の系図も、女たちを登場させるための演出だったと考えるのが妥当です。すなわち、ダビデが含まれる系図とイエスは、全くの繋がりがありません。

 

【イエスの父は誰か】

 では、イエスは誰とマリアの子なのか、ということが気にかかります。マタイははっきり言いません。というよりも、知らなかったんでしょう。

 妊娠の理由をマリアは誰にも漏らさなかったんだとぼくは考えております。

 真実をわからないままで、「マリアは聖霊によってみごもっとマタイは伝えたんでしょう。この言葉で判る確かなことは、イエスは、確かにマリアが産んだけれども、ヨセフの子じゃないということです。この事実だけは、当時の人にも知れ渡っていて、隠せないことだっただろうと思います。ただ、そういうことです。

 

【ダビデの血統ではない】

 イエスがヨセフの子でないのですから、ダビデの子孫ではないことになります。そうだとすると、多くの教会で教えられてきたこと聖書の表記が異なっているということです。今日の讃美歌にもあったようなエッサイ(ダビデの父)の根からイエスが生まれた、という表現は思い込みに過ぎません。

 クリスマスの雰囲気に浸りたいのはぼくも同じです。だから、皆さんがクリスマスキャロルを歌いたい気持ちは十分に判ります。ただ、歌詞の内容を考えると、ぼくは、心から素直に歌うことができなくなってしまっただけです。この気持ちもご察しいただければ幸いです。

 聖書の記述に、ぼくがあまりにも神経質になりすぎていることはわかります。そこまで神経を尖らせなくてもいいじゃないか、とおっしゃる方も多いんですけれども、そんな人に限って、私は聖書に忠実に従いたい、とおっしゃるもんですから、ぼくは面食らって混乱してしまいます。いったい何を大切にしておられるのか、聖書を大切にしているのか、誰かの教えを大切にしているのか、察しがつきません。

 

【養子にした

 ヨセフは、誰が父親か判らない子を宿しているマリアを妻として迎えました。とても難しい決断をしたのだと思います。

 一度はマリアを手放す気だったヨセフが気持ちを変えて、マリアを妻にすることにした、という経緯についても、マタイは詳しく語りません。夢の中でお告げを受けた、という神話の中に全てを閉じ込めているだけです

 事実は何もわからないんです。当事者以外の誰も事実を知らないんです。

 そんなことでいいのか、と考える人は多いんですが、はたして、全てを知ることなんか可能とは思えませんし、全てを知る必要があるとも思えません事実を知ったから、と言って、受け入れられる人もいないんじゃないでしょうか。

 皆さんがご自分のことを考えてみたら、よくわかると思います。説明したくないようなこともたくさんあるんじゃないでしょうか。事実を詳細に述べたとしても、それらの出来事に対する、聞いた人の心の動きも判断も十人十色、千差万別だと思います。

 

【知っても知らなくても変わらない】

 札幌では、雪も降っているのに、永田町では「桜を見る会」の話題で持ちきりです。いやいや、来年の春の予定について議論しているんじゃありません。過ぎた春の出来事です。国会が、いかに遅れているか、誰にでも判ります。

 安倍晋三首相も下手な答弁をしなければいいのに、とぼくは思います。

 「寝ているときに、私の心に、上からの啓示があって、思いつくままに名簿を作成しましたこの出来事について、もっと事務方意見を聞いて、調整してから実施すれば、誤解を生むこともなかったろう反省しております。そして、この一連のことについては、皆様に謝罪もうあげます。これからは気をつけますので、どうぞ、お許しください。また、国に損害を与えたことがありましたら、個人的にも賠償する用意がありますので、ご請求願います。」程度のことを言えばよかったんじゃないでしょうか。

 欠点を暴くだけの目的で、過去を調べ上げれば、いくつも疑問点を見つけることができるでしょう。しかし、出てきた事実に対する捉え方は千差万別のはずです。真実をいくら述べたところで、さらに細かい問いが投げかけられる羽目になるでしょう。

 野党、ただ議論をふっかけているだけで、落とし所が見えません。落とし所が無い議論など、結論が出るわありません。

 無能な国会議員たちの醜態と比較することはできませんが、福音書の著者マタイは、重箱の隅をつつくような議論に参加するつもりは毛頭(もうとう)なかったんです。

 マタイは、おとぎ話のような神話語りましたけれども、はっきりさせておきたいことは、その話の中で、はっきりさせております。それ以外のことは、どうでもよかったんでしょう。自分にとってどうでもいいことをマタイはクラウド(雲)の中に置いて、議論などせずに、神話的な表現や詩的な表現で、さらりと終わらせたんだと思います。

 「私たちの太陽は、毎朝東から昇り西に沈という詩的な表現と同じように、「マリアは聖霊によってみごもった」とマタイは言っただけです。

 このような詩的な表現を、まるで、処女に聖霊が襲いかかったかのように解釈するのは、誤解もはなはだしいところです

 そんなことについて、事実はどんなことだったんだろうかと考えるのも馬鹿馬鹿しいことですし、言葉通りに信じ受け入れなければならない、と他人に強いることは精神的な抑圧です。イエスの福音とは関係ないどころか、福音に対立することです。

 

性を差別してはいけない

 聖なるイエスセックス・レスで産まれたと信じ込むことが信仰にとって重要なことじゃありません。「救い主が性行為によって産まれてはいけない」という偏見が「処女降誕(処女受胎)説」を生み出しただけです。どんな宗教にもそんな傾向があります。その基には差別意識があるだけです。

 実質的なことを言えば、イエスは、ダビデの血筋を受け継いでいないことは確かですダビデの血筋を受け継いでいるヨセフ養子として、受け入れて、実子として育てた、ということです。

 マリアとそのお腹の子を、ヨセフは災難や危険から守ったということは確かでしょう。そのようにマリアとイエスを守ることができたのは、ヨセフしかいませんでした。ただの優しい人なんかじゃなくて、ヨセフは意志の強い人であったはずです。ヨセフがいなければ、マリアにもイエスにも、先がありませんでした。

 イエスは、ダビデ王の純血じゃなくて、誰が父かわかりません。それは確かなことです。そして、マリアは真実を明かしませんでした。明かせな理由があったんでしょう。マリアはイエスの父をも守っていたのかもしれません。いずれにせよ、イエスを守るためにはそれしかなかったに違いありません。他の人が事実を知れば、マリアのような判断をしなかったかも知れません、しかし、マリアは誰にも相談せずに、マリアの判断として、誰にも言わずにイエスを守ったんです。イエスは、ヨセフマリアに守られました。それが事実です。

 それ以上に、説明が必要でしょうか。いやたとえ説明しても、すべての人が納得することはないでしょう。そんなことは福音書記者マタイにも十分わかっていました。だから、マタイは「マリアは聖霊によってみごもった」とだけ言ったんでしょう。

 マタイのこの言葉を聞いただけで、どんなことでも想像することはできますけれども、この一言を聞いただけで、根掘り葉掘り聞く必要はない言うに言えない事情を察知して、その言葉だけで、全てを受け止める人がいていいはずです。いや確かにヨセフもそんな人だった、と思います。

 

【ぼくたちは】

 誰しも、隠したい過去があるでしょう。今では判らない過去を、先祖が、背負っているかも知れません。しかし、そのような経緯があったからこそ、今のぼくたちがあるんです。

 系図に登場する女たちのように、隠せない過去を背負ってきた人もいますし、マリアのように、言うに言われぬ過去を背負わされ女もいます。そういうものを全て、黙って、ありのままに受け入れたヨセフのような人もいます。

 そんな、様々なことがあって、イエスが生まれ育ちました。

 ぼくたちの過去にも色々あります。言うに言われぬこともあるでしょう。黙って受け入れることもあるでしょう。

 そんな中にあっても実際に人が育てられるということは、ぼくたちにとって福音です。

 罪や咎を洗いざらい告白すればいいってもんじゃありません。わかってもわからなくても、受け入れる人は受け入れますし、受け入れない人は受け入れません。とにかく、ここで判ることは、赦し赦され、受け入れ受け入れられることによって、次の世代が生きて来たという事実です。イエス自身が語った福音も、そんな中で育まれたんです。

 どうしようも無い現実も受け入れられる、というのがイエスが伝えた福音です。イエスが伝えた福音によって、どうしようもない過去のしがらみからも解放されるです

 このように、現実の世界では、人を救い、人を生かす福音の出来事が続けられています。

 このような現実味のある、再現可能な福音を、ぼくたちは伝え続けたい、と願っています。

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