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「勝手はさせない」20210718
「勝手はさせない」20210718
聖書 創世記 二章 四節〜十七節
夢のない民は滅びると申します。あなたはどんな夢をお持ちでしょうか。
イエスの夢は何だったのでしょうか。想像することしかできませんけれども、掟や宗教を捨て去って、心を縛る事柄から解放されたことによって幸せを感じられるようになったイエスは、あなたにもわたしにも、そして多くの人にも幸せになってもらいたかったので、自分が気づいたことをみんなに知らせたのでしょう。ですから、みんなが幸せになれたらいいなあ、というのがイエスの夢だったように思います。
福音書によれば、多くの人を癒したイエスは、あちらこちらに出かけて行って、もっと多くの人に教えを伝えたい(マルコ一章三十五節〜三十九節)と思っていたようです。
この時点のイエスはすでに、既存の伝統宗教の神解釈を認めない人になっていたと思います。
ところで、既存の宗教の伝統的な神理解を説明する時には、創世記の創造物語がよく用いられます。そこで今日は、創世記の創造物語を読みますが、今までの解釈とは全く異なった観点から考えてみることにしました。
天地創造物語に登場する神は絶対君主のようです。神は権力思考の塊(かたまり)であるように感じます。このことから、創造物語は絶対君主制の下で書かれたことをうかがい知ることができます。もしそうだとすれば、現代日本に住むぼくたちにはとうてい承伏(しょうふく・相手の言うことに納得して従う)できない内容をこの物語は含んでいるはずです。そうであるにもかかわらず、聖書に書かれていることだからという理由で、このまま信じて受け入れている人もおられます。字面(じずら)のまま信じていないとしても、この物語を通して、神を批判することなど考えられない信者は多いでしょう。しかし、この物語に登場する神の行動は看過できないほど身勝手です。具体的に説明しましょう。
【創造神話は平和じゃない】
創世記には二つの創造物語があります。二つの天地創造物語が連続して書かれていることに気付いておられない方も多くおられるので、簡単に説明しましょう。まず、創世記一章一節から二章三節までが一塊(かたまり)です。そして、四節の「これが天地創造の由来である」という言葉によって二つ目の創造物語が始まっています。このことを理解するだけで、人の創造について、異なった視点で書かれていることにも合点がいくはずです。
さて、一つ目には「神」が宇宙をはじめ生物を創造して、全てを支配させるために人間(男と女)をお作りになった、と説明され、さらに、安息日の制定理由まで書かれております。
二つ目は、「主なる神」は初めに不毛の天地を作り、地に水を与え、人を創造したのだそうです。それからエデンの園を計画なさり、そこで働かせるために、人をそこに連れて来て住まわせます。一つ目と二つ目の話で、「神」と「主なる神」という異なる呼び名が使われておりますが、とりあえず以降は神と表現します。
最後に神は、助手を選ばせるためにさまざまな動物を連れて来ますが、どうもいまいちだというので、男(男性名詞のイーシ)の一部から女(女性名詞のイシャー)を作ったのだそうです。
神の命令に逆らわない、という条件付きですけれども、真面目に働きさえすれば、十分な実りを期待できるほど豊かに潤(うるお)った土地で、アダムは食いっぱぐれることなく、生活できることになっていたようです。このことだけでも、アダムは神に愛され守られているのだから、感謝すべきである、とほとんどの信者は思うようです。しかし、一見平和そのものに見える天地創造直後の世界の描写に、ぼくは言い知れぬ不安を感じました。
【神の創造を納得できない】
腑に落ちない点は、天地創造物語が始まる前提が全く無いことです。神が、何の前触れもなく登場してくることが腑に落ちません。なぜ、何者にも反論を許さないような仕方で神が登場し、勝手に宇宙や植物や動物を作り出し、それらを管理させるために人を作ったのでしょう。
このような疑問を持つこと自体が多くの信者に理解されないことを承知の上で、あえて言わせていただきますと、なぜ神が突然出て来て誰の許可も得ずに勝手なことをするのか、ぼくは納得できないんです。
神は天地や生物を創造なさった、と一方的に宣告されると、そのまま受け取ってしまう方が多いというか、受け取らざるを得ないようなのですが、そのような押し付け方にぼくは疑問を持っています。
思うがままに振る舞う神が最初に登場して、神自身が勝手に計画したことを進めますよね。神はそんなことを勝手にする権利を持っているということが自明の理にされているんですが、そんな考え自体が腑に落ちません。
突然登場した神が、これほど独善的に振る舞うことに対して、誰も異議を申し立てることができないままに物語が進められて行くことが「おかしい」とぼくは思います。このような状況を、そのまま許してしまっていることが、これ以降の物語の中で、さまざまな事件を引き起こし、問題を大きくしている、とぼくは思っています。
【素朴な疑問】
アメリカの連続テレビドラマをよく見るようになりました。その中に出て来た言葉にすごく惹(ひ)かれました。アメリカンジョークですが、ジョークと言いましても、笑える内容ではなくて、深刻な場面で語られた皮肉です。
まず「エデンの園に連れてこられたアダムが最初に何を言ったか」と問われます。すると、アダムは「おれにとって何の意味があるか」つまり「何の得があるか」とつぶやいたというものです。聖書に馴染みのない日本人にはほとんど通じないでしょう。けれども、すごく深い意味を感じました。何度も再生しましたが、原語でどう表現したのか、正確なところはわかりませんが、創造物語を考え直すきっかけになりました。
【アダムは奴隷?】
神は全ての権力の頂点であると考えている人にとって、「神が勝手に・・・」というぼくの表現はなじめないでしょう。けれども、冷静に考えてみてください。善いか悪いかは別にして、神話の神が勝手に天地万物を創造したことは判っていただけるでしょう。そして勝手にエデンの園を計画し、そこを耕(たがや)し守る労働をさせるために勝手に創造した人をそこに連れてきたと言えます。さらに、人の助手をさせるために多くの生物や女まで作って、生めよ増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ、と勝手に命じているのです。
被造物は創造者の意思にいっさい背いてはならないという暗黙の圧力の下で、すべてのことを神が思うがままにするんです。そんな物語を、当たり前のようにぼくらは聞かされて、当然のように神の権威を教えられてきたんです。
人は神の形に創造され、神に従うことができる自由意志が与えられたのだと教えられて来ましたけれども、エデンの園で働かされるアダムに自由意志なんか無い、と思います。限定された範囲の中での自由行動が許されているだけです。自由意志が保証されているとは言えないんじゃないでしょうか。
エデンの園の中央の木については触れてもならないなどと命令されたアダムは、妻エバと共にそれを自由意志によって食べてしまうのです。しかしその違反のために、エデンの園から追い出されるのですから、アダムの自由意志なんか認められていないんです。
冷静になって考えてください。アダムは農作業に従事するために、神がエデンの園に連れて来た労働者です。命じられたことを命じられたようにして働かなければならない労働者です。神が大事にしている木をながめたり下草の処理をすることはできても、触れることさえ許されない労働者です。
主人によって連れてこられ、主人のために働かされ、命令に背くことはいっさい許されない労働者を奴隷と呼ぶんじゃないでしょうか。
【聖書朗読時の注意】
聖書を読む時に、まず誤解なさらないように、はっきりさせておきましょう。まず初めに聖書の創世記が書かれて、書かれたように世界が創造されたのではありません。まず何らかの現実があって、その事実を説明するために物語が描かれたんです。この順番を間違えてはなりません。つまり執筆年代と、物語の内容の時期は完全にずれている場合が多いということを忘れないようにしておいてください。
紀元前五五〇年頃には旧約聖書のモーセ五書は今のような体裁を整えていたようですが、創世記の実際の執筆年代はわかりません。いずれにしても天地創造物語は、宇宙や人類の誕生とは関わりのない時代に描かれたものです。
さて、創造物語に登場する神は、絶対君主のような存在にみえます。このことから絶対君主のソロモンが思い浮かびます。ソロモン神殿の学者たちが創造物語の著者であった可能性が高まります。そうだとすれば、著作年代は紀元前九百年半ばということになるでしょう。ソロモンの学者たちが絶対君主制を擁護するために書かされた物語であったのかもしれません。しかしそこからアダムの苦悩や絶対君主の理不尽さを読み取ることができるのも事実です。
創造物語を、絶対君主にたいする批判として読めば、アダムのつぶやきがぼくには聞こえてきます。それはすなわち、先ほど言いましたドラマのアメリカンジョークで紹介したアダムの言葉です。神によってエデンの園に連れてこられたアダムは「おれに何の意味があるのか。おれに何の得があるのか」とつぶやいた言葉です。
命令に逆らわないで、命じられたままに感謝して生きることが、人間の当然の務めなのだと教えられてきましたけれども、アダムはそのような立場に納得しているようには見えません。アダムには他にやりたいことがある、と考えて当然です。命じられるままに生きることなんかできない、という生き方があって当然です。連れてこられて命令通りに働けと言われる生活に屈しているわけにはいかない、という生き方をイスラエル民族もしてきたはずです。きっとそういう背景もあるでしょう。
行くところを自分で決めたいし、仕事も自分で決めたいのが人です。それこそ当たり前の人間の生活だと考えてもいいはずです。
エデンの園での神は絶対君主です。そこでのアダムは奴隷です。そんな世界はおかしい。そんなことは容認できない。そういうことを感じてほしいという希望を持って学者たちは創造神話を書いたのかもしれません。突然現れて、神だと自称する者に「勝手はさせない」という意味です。
【ぼくたちは】
ぼくは自分の生活を自分でコントロールしたいです。じぶんの生活のあらゆる側面を自分でコントロールしたい方にぴったりのよい情報である福音をぼくは伝えていきますから、これからも一緒に研鑽を続けましょう。