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「福音保存会」20220807
「福音保存会」20220807
聖書 マルコ福音書 二章十八節〜二十八節
ユーチューブを見ていまして、偶然に廣澤虎造(ひろさわ とらぞう)保存会の映像に出会いました。三十年以上も前に二代目廣澤虎造全集のレコードの音源をカセットテープに落としてあげたことを思い出しました。
物語を語ったり三味線に合わせて歌う節回しに聴き入ってしまう芸です。同じ演目に何度も出逢います。ですから話の筋はわかっているのですが、だからこそ、あそこの語り節をもう一度聴きたいという思いで、何度も聴くもんです。好きな人は覚えるまで聴くようです。簡単に録音できなかった昔は何度もラジオで聴きました。
【また聴きたい説教を作りたい】
落語も何度も同じものを聴きます。今はユーチューブで名人の話を聴くことができます。けれども、先日突然に、お気に入りの落語が出て来なくなったんです。販売の邪魔になるというので消されたのかも知れません。突然に相手の都合で消されてしまうので安心できません。
ぼくもユーチューブで説教を配信していますけれども、いつ消されるかわかりません。影響力がほとんど無いので消される心配はありませんが、大切だと思われる方は何らかの方法で記録なさったほうがよいでしょう。
とにかく浪曲にせよ落語にせよ、聴き入ってしまうだけではなくて、また聴きたくなるというのが素敵です。そんな説教をしたいものだと牧師としては常々思うのであります。たとえば今日は「石打にされかけた女」の話を聴きたいだとか「戸板に乗せられて屋根から吊り下ろされた中風の男」の話が聴きたいなどと言われたいものであります。牧師になって十八年目、同じ聖書の題材を取り上げることが多い背景にはそんな狙いがあるからだと言えなくもないのであります。
【イエス一行は食べ続けた】
ということで、今日もマルコ福音書から説教させていただきます。「イエス一行はなぜ断食しないのか」という物語と「イエス一行はなぜ安息日に麦の穂を毟(むし)って食べるのか」という話を先ほど読んでいただきました。まったく別の話題のようですが、「イエス一行は食べ続けた」という内容で繋がっております。
宗教では、熱心さをアピールする信者さんが断食なさる場合があります。自己抑制する精神が立派だと思う人が多いからでしょう。
実はイエスも、自分の考えを情報発信する前に、バプテスト・ヨハネの元で修行を始めた頃に、断食をしていたと思われております。マルコによればイエスは四十日間荒れ野にいたと書かれているだけですが、マタイは四十日間断食したと書いています。さらにルカは四十日間悪魔から誘惑を受けていた間は断食していたと書いています。マルコのイエスは四十日間荒れ野にいたのですから食べ物がなかったことは想像に難くありません。しかし自ら進んで断食したのかどうかは定かではありません。時代が進むに連れて脚色が多くなっていることをはっきり見て取ることができます。
【伝統的な生活に意味を見出していなかった】
今日の箇所によると、ファリサイ派やヨハネは弟子たちに断食させたようですが、イエスは弟子たちに断食させていないのですから、断食することなどにイエス自身が意味を見出していなかったことは明らかです。
また、イエスは、厳格な姿勢で安息日を過ごすことを弟子たちに求めていなかったのでしょう。今日の箇所では、イエスの弟子たちが言いがかりを付けられて意地悪されているように考えていたのでありますが、そうではない可能性にも気がつきました。詳しく言いますと、イエスの弟子たちだけが、安息日に無頓着な行動を取っていたのです。それでいいのだとイエスからたぶん指導されていたからでしょう。しかし、ファリサイ派やヨハネの弟子たちは、たとえ腹が減っていても、麦の穂を摘んで食べたりするような真似をすることはなかったと思います。麦に鎌(かま)を入れることが仕事であり、手で摘むことは安息日違反ではないことを知っていたとしても、信心深いファリサイ派やヨハネの弟子たちは、麦の穂を摘んで手揉みして食べながら歩くなどというような不作法(ぶさほう)な真似をしなかったはずです。
イエスとその一行が不作法であったというのではなくて、生活の全般を通して、伝統的な宗教的生活に従うつもりはなかったという意味です。すなわち、イエスをはじめ弟子たち全員、ファリサイ派に負けないほどの従順な信仰者になる気など全くなかったんだと思います。
イエスはユダヤ教の新しい解釈をするなどという程度の宗教改革を目指していたのではなくて、伝統的な教えなど全く必要ないと考えてそのように弟子を指導していたのだと思います。
安息日規定でさえ民衆の生活を規制するために作られたのではなくて人のために作られたものなんだから、とイエスは平気で言っているように、日常の中で断食することなど必要ないし、たとえ安息日であっても、お腹が空いたら、食べてもいいと教えたイエスもイエスの弟子たちも、伝統や風習に左右されずに生活したんでしょう。
この点をはっきり理解している人は現代にも少ないはずです。だから、初代教会も現代の教会も、ユダヤ教に基礎を置いたままで、ユダヤ教の神に立ち返らせる宗教改革者のようにイエスを扱っているのだと思います。こんな生半可なことでは、イエスが教えた福音(真の情報)は伝わるはずありません。イエスはユダヤ教の生活習慣などまったく気にしていません。生きるために食べるという人間の動物的習慣をこそ大切にしています。だから安息日も断食も関係なく食べたんです。
ところがどうでしょう。教会はまるでユダヤ教の新派でもあるかのように宗教的な生活習慣を大切にしています。創造主である神の命令に仕えるかのように礼拝しています。安息日が日曜日に替わったかのように教えて、必死にこれを守らせようとします。でもそのような姿勢がどこかおかしいと勘づいている多くの人は宗教的なしきたりに従う必要などないと知っているから集まらないのでしょう。「ねばならない」という決まり文句が通用する時代は過ぎました。伝統的な教会も、この事実をそろそろ認めてもいい頃です。
【ぼくたちは】
イエスの元に多くの人が集まったのは、イエスの元に行けば、宗教社会に押し付けられた重荷から解放されることが判ったからです。
自分の弱さを背負っている人から罪を取り除くと言いながら新たな要求を与えるようなキリスト教の宣教をやめて、あなたが従わねばならない掟などないと教えたイエスのように、人々を解放するイエスの教えだけを大切にする教会が必要です。どんなにマイナー(少数派)になっても、ぼくらはイエスの福音だけを伝える「福音保存会」のような教会でありたいです。
次週は日本の風習のお盆のために、日曜礼拝を休みます。執事さんたちも家族の面倒を見なきゃならないので、そのように執事会で決めました。ですからみなさん気兼ねなく次週の日曜礼拝を休んでください。「それでいい。安息日と同じように日曜日も人のためにあるのだから」と、イエスならおっしゃるはずだからです。