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「戦闘は平常心でやめられます」20231126

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「戦闘は平常心でやめられます」20231126

戦闘は平常心やめられます

              説教者 岩本義博

聖書 創世記 章十節~二十七

 

 先週の木曜日は勤労感謝の日だったので、聖書楽講座を休講にしました。何かに託(かこづ・口実にして)けて休んでいるだけです。

 木曜日の話し合いをヒントに次の説教を作ることが多いのですが、今回はそれができなかったので、過去に何度説明して理解してもらえなかった重要な内容を説教することにしました。ご希望が多かった番組を再放送いたしますと説明するNHKじゃありませんが、過去の説教焼き直しました近頃の言葉でこれを働き方改革」と申します。

 

【無意味なニュースをやめてもらいたい】

 NHKと言えば、近頃のニュースで一番多い戦争報道です高齢者の交通事故や殺人事件や火事や芸能関係など、公共の全国放送で流す必要がない内容ばかりです。たとえば爆撃に強いですからジェイアラートがなった時の避難所を作る参考にしてくださいという理由を付けてハマスが作ったトンネルの説明をするならわかりますけれども、そうでなければ必要ありません。興味を引くだけのニュースは民間放送局に任せておけばいいんです。国民から視聴料を巻き上げているNHK国民の生活に直結する国策や国政問題を報道する義務があります。重要な内容をさわりだけ伝えた後は、今日のスポーツです、などと言って、話を濁(にご)すのは、政治家の能力を隠したい政治権力への協力としか思えません。

 そんな現状ですからつまらない情報は大手メディアに任せて、ぼくは自分たちの生き方に直結する情報を伝えて行くことにします

 幸いにもここ数十年のインターネットの発展によって、ぼくが配信しているユーチューブ動画のように個人意見を発信できる道具手に入り見ず知らずの人にも受け取っていただける環境ができました。多くても数百名視聴してくださるチャンネルですけれども、教会内部で話しているだけでは伝わらない方々に発信できる価値があります。

 そこで、せっかく個人の意見を述べる事ができ場ですから、権力に阿った(おもねった・気にいられようとする、へつらう)発言をせずに、比較的公正で、誰もが確認できる情報を伝えようと努力しています。ぼくが発信する内容は既存の組織的キリスト教の教会が伝えている内容と全く異なります。そんなものを教会内部から発信して良いのかという声も聞こえてきますけれども、だからこそ意味があるとぼくは考えているのです。

 既存の教会には、正統派を自称する人たちが教えた神学によって洗脳されている信者たちがおられす。表現に反発なさる方もおられるでしょうが、あえて言わせてもらいますと、統一教会の教えに洗脳されている人々と同様に、教会の教えにどっぷり浸かっている人々に、イエス自身がお伝えになった福音を知っていただくことが神学教育を受けたぼくの使命だと考えているからです。

 伝統的教会が教え神学しか信じないとおっしゃる堅物の信者に対して、人間が考え出した神話の神の命令に囚われない生き方を伝えることこそ、ユダヤ教の神話の神の命令に囚われない生き方をお伝えになったイエスに倣(なら)うことだとぼくは考えているからです。

 さて、伝統的教会の教えの根拠は聖書だと言われます。しかし聖書学を進めていく中で、教会の教えが、聖書に即していないとぼくは気づきました。そこで信者が生活の根拠にしている聖書について共に見直したいと願っているのです。

 

【ぼくへの反論】

 ユーチューブに上げた動画を見てくださったから、数日前に反論が寄せられました。「聖書は神の啓示の書です。人間が作ったものではありません。勝手に解釈してはなりません!あなたは人を惑わしています」と送信してくださいました。ぼくが学んだ二つの神学校のうちの一つでは確かにそのように教えられました。しかし二つ目では、聖書の成り立ちを、基礎から研究させてもらいました。その際に聖書の正典が教会会議によって定められたことをぼく自身も初めてらされていたことを今も鮮明に覚えています。

 聖書は、千年程度の期間にさまざまな場所でさまざまな人によって書かれた文書の集合体ですから、矛盾する記述がたくさんあるのですつまり、聖書は天から降ってきたものでも神が書かせたものでもないということです。

 

【聖書の正典化について】

 キリスト教では、旧約と新約を合わせて聖書と読んでいますが、これを正典(せいてん)と認めたのは、四世紀の終わりころの教会会議です。

 三一三年(ミラノ勅令キリスト教が公認された後、三二五年二ケア公会議で三位一体などの教会教義が定められました。この会議を主催したのはローマ帝国皇帝コンスタンティヌスですから、背景に政治権力があったことは確かです。その後、テオドシウスが三九一年にキリスト教をローマ帝国の国教に定めた際に、キリスト教の教義を決定づける書物群を確定する必要から何度も議論や会議を重ねた末に三九七年にカルタゴで行われた教会会議で聖書の正典が定められたのでしょう。とは言え旧約聖書を含む議論ではありません。とにかく、新約聖書が正典とされる過程に、時の政治権力や教会組織の権力者が大きく関わっていたのは確かです

 正典の成立過程から言えることは、「聖書は神の啓示の書」だなどと言えないことは確かです。当然、正典聖書に誤りもあるのです。

 聖書を聖典と呼び、神の言葉であると信じる人がいても構いません。しかし聖書の言葉の全てに従順に従うことなど誰にもできないのですから、それを理由に他者を完全否定することは誰にも許されていないからです

 

聖書の言葉に従順に従えない

 今日読んだ聖書の中に「カナンはセムの奴隷となれ」とあります。これに聞き従ってセトの子孫(イスラエル人)はカナンの子孫(パレスティナ人)を奴隷にすべきでしょうか。差別を無くせと唱えているこの時代に、聖書の言葉に従って隣国の民を奴隷にできるはずありません。セトの子孫がこのような差別的神話を書いたのだと理解すべきです

 そもそも、聖書に足しても引いてもいけない、とヨハネ黙示録に書いた時代にはまだ新約聖書なるものは決定していませんでした。聖書の言葉で聖書を保証することなどできません。

 

【ぼくたちは】

 聖書の表記や解釈をめぐって争う必要などありません。かつては殺し合いさえありましたけれども、そんなことをする権利は誰にもありません。

 みなさん、落ち着いて平常心に戻りましょう。平常心で殺し合える人なんかいないからです。平常心になって常識的に読めば争いを無くせす。

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