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「見つけるまであなたを探します」20200209

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「見つけるまであなたを探します」2020年2月9日

聖書 ルカ 十五章一節~七節

 

 説教を作る時に、いつも気にしているのは、どんな言葉で、あなたを慰めることができるか、喜ばせることができるか、安心させることができるか、ということです。

 聖書に書かれていることを勉強させよう、などとは思っていません。もちろん、覚えておいてためになることを、織り交ぜて話すことはありますけれども、ぼく自身勉強嫌いですから、他人に学問させようなどとは、毛頭思っていません。ですから、「覚えろ」などと申しません。何度も同じことを言うことはありますけれども、それは、人間は、何度も聞かされていることを、自然に覚えるもんだと思っているからです。前に聞いたことと、同じことを言っているなあ、と思った時には、これは大切なことなんだと思っていただければ幸いです。牧師も痴呆症始まったのか勘違いなさいませんように。

 

【マタイとルカは共通資料を持っていた】

 さて、今日は、迷い出た「一匹の羊」の「譬え話」の箇所を読んでもらいました。この物語は、マタイ福音書の著者とルカ福音書の著者が福音書を書く際に利用した資料(Q)に含まれていたようです。マルコ福音書にこの物語がないのは、マルコが同じ資料を持っていなかったからです

 マタイとルカが同じ資料を利用しつつも異なる表現を採っているのは、資料をそのまま写していないことを証明しています。それぞれの著者は、資料を使い、それぞれの意図によって、物語まとめ上げたから、著者の個性が出ているんです。

 

【マタイとルカは異なる表現をした】

 見比べると、マタイ十八章十二節では「あなたがたはどう思うか。羊を百匹所有していた人がいたとして、そのうちの一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残したまま、迷い出た一匹を捜しに行くでしょうと、またルカ十五章四節には「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいたとして、そのうちの一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残したまま、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回るでしょうとあります。聖書の訳のままじゃ判りにくいので、意訳しましたけれど、同じ資料を利用していたとすれば当然ですが、両者はよく似ています。あまり違わない、と感じる読者が多いと思います。特に、聖書には一つの真理が書かれている、と信じている読者にとっては、両者の違いは判りにくいものです。

 しかし、言葉使いが異なることによって、内容微妙に異なっております。微妙ですけれども、取り扱い方に、決定的な違いをぼくは感じます。

 マタイでは、迷い出た一匹ですから、迷い出た本人の責任のようですし、ルカでは見失った一匹ですから、羊飼いの責任のように感じます

 いずれにしても、れらの話を読んだ人の多くは九十九と一すぐに対比するでしょう。そうすると、現実には起こりえない、おとぎ話のように感じるもんです。

 一匹のために九十九匹を危険に晒すことを現実の社会では考えません。逆に、九十九匹の安全を確保するために一匹の犠牲は止むを得ない、と考えるはずです。

 そういう数の論理を、ぼくたちは小さい時から叩き込まれてきました。

 

【数に誤魔化されやすい】

 九十九パーセント安全だ、と言われれば、安全なんだと考えるように、ぼくらは作られてきました。しかし、これは本当は危険だ、という意味です。

 いろんな事故がたくさんある現実を見れば判りますように、危険はいっぱいあります。何しろ安全教育の国家試験六割採れば合格というものがいっぱいありますし、運転免許の学科試験でも九割れば合格です。大切なことの内の何割理解していない人たちが危険作業に従事しているんですから、たくさんの事故が起きても不思議じゃありません。

 

【九十九%でいいのか

 現実の社会では、九十九パーセントも揃っていたら、十分過ぎるほどです。この言い方も、実は矛盾した表現です。判るでしょうか。十分の意味は百パーセントなんですから、九十九パーセント整っていれば十分(百パーセントだよ、なんて、矛盾してるでしょう。「まあそれぐらいいいでしょう」という程度の、い加減な意味です。

 会でも、三分の一の賛同を必要とする重要法案以外は、ほとんど、過半数の賛同議決されております。い加減な話でしょう

 こんな社会の論理今日の「譬(たと)え話」を読めば、九十九匹を残して一匹を探しに行くことなど、あり得ません

 「捜しに出かけた羊の持主は、ようやく一匹を見つけ、喜んで連れて帰りました。ところが、帰ってみると、居たはずの九十九匹が全部いなくなっておりました」てなことになったら、洒落(しゃれ)になりません

 ですから、この譬え話は、聖書特有のおかしな話だと多くの人は考えます当時の人々も、イエスを狂った人のように感じたことでしょう

 そうであるにも関わらずイエスは、一匹を捜しに行くことを前提にしています。イエスは変な人だ、と多くの人は思うでしょう。この物語を初めて読んだときには、ぼくもそんなことないやろう」と思いました。

 イエスが、それほど数字に弱い人だったとも思えません。そうだとすれば、この「譬え話を通してイエスが伝えたかったのは、数字の大小に関わる話ではない、と予想できます。

 

読者の立場の違い

 物語を読む面白さは、読者が、初めのうちは、物語全体を俯瞰的(ふかんてき)鳥瞰図のように見ることができる点です。そのうちに、登場人物に自分を重ねたりするようになるでしょうここが楽しく読める物語の特徴です。この時に、どの登場人物に共感するか、という選び方の違いは、読者の実際の立場や状況が影響すると思います。

 羊の所有者に共感する迷い出たあるいは失われた一匹の羊か、残された九十九匹の羊か、などです。探しに行くかどうかは別にして、一匹見失っちゃったよ。親父に怒られるかなとか損しちゃったなあなどと、困っている羊飼いの状況に共感する人もいるでしょう。そのように、損得勘定で考える人多いと思います

 野原は危ないけれども山の上というのは神聖な場所を示しているから安全なんだ、という解釈もありますけれども、一匹のために残しておいた九十九匹は大丈夫なんだろうか、と心配する人もいるはずです。あるいは見つけ出された一匹の羊に自分を投影し、安心する人もおられるでしょう

 要するに、「譬え話」というものは、どういう立場に自分を置いて読むか、ということで、感じ方が随分異なるもんです。

 

【譬え話の主人公は誰】

 何れにせよ、先ほど言いましたように、ここで大切なのは、数字を比較することじゃない、とすれば、どのように考えればいいでしょうか。

 ぼくが最初に考えたいのは、この物語の主人公です。全体を俯瞰的に見ている天の父を主人公だと考えは、マタイとルカの解釈ので、元来の物語の意味からズレていると思います

 マタイは「天の父は、一人も滅びることを望んでいない」と結び、ルカは「改心する必要のない九十九人の義人たちよりも、改心する一人の罪人のゆえに、天においては喜びがある」と表現しています。見えなくなった羊は、そのまま放って置けば、滅びゆく者や罪人として扱われているんです。山に残された九十九匹の羊は、九十九人の義人である、とまでルカは言います。これで判るように、失われた一匹は、一人の罪人、だという解釈なんです。

 マタイとルカの解釈には、いなくなった一匹、監視下にいない一人に対する明確な評価、罪人だという判断が下されている、と思います。自分たち九十九人の義人はさておいて、見失われた一人の罪人が改心することが天においての喜びなんだ、ということは、天の父は、それほど慈悲深い、ということを強調したいがために、迷い出ている一人を完全に差別しています。これらのことから、教会の宣教を意識した解釈が物語に加えられていることが判ります。このような解釈が、もともとあった物語の中心だとは思えません。なぜなら、時系列で考えても、教会の宣教姿勢を教えるために、イエスがこの譬え話を語ったはずはないからです。

 むしろ、この譬え話の骨子は、一匹の羊が事件に巻き込まれてしまっている、という状態だけだとぼくは感じます。

 物語の前半においてはまだ舞台に登場していない一匹の羊が、この譬え話の主役なんだと思います。一匹の羊が、理由は何かわからないけれども、見失われている事実があるだけです。そこに善悪の評価をつけてはなりません

 数の論理では、百匹のうちの一匹だけで済んだんだからいいじゃないか、という解釈もあり得ます。ぼくたちも、常々、そんなふうに考えています。しかし、あなたが、迷っている一匹の羊になった時に、同じように思えるでしょうか。

 誰に、いつ何処で何が起こるかわからないのが現実です。次の瞬間に、一匹のになるのはあなたかもしれませんし、ぼくかもしれません

 その時に、「数の論理で切り捨てることになっているから、あきらめてくれ」と言われたらどうしますか。絶望でしょう。

 あなたが聞きたいのは、「何としても君を救いに行くよ」という言葉です。イエスは、そのことを言ったんです。だから、イエスの言葉は、あなたのためにあるんです。

 一匹大切にする」という言葉は、残り九十九匹見捨てるという意味じゃありません。百人の内の一人になることは、誰にでも起こり得ることですから、対象が誰であれ、その一人を見捨てることはない、とおっしゃったイエスの言葉は、あなたを安心させる宣言なんです。

 数に惑わされている人は、誰も、イエスのように考えられなかったんです。けれども、イエスは、「誰であれ、事件の最中にいるならば、探しに行く」もんだ、と考えていました。

 

【ぼくたちは】

 そうであるならばあなたが突然、事件に巻き込まれるようなことになったなら、わたしはどこまでも、探しに行くよ。あなたを見殺しにはしない」と、イエスおっしゃるでしょう。

 わたしは、イエスの言葉を聞いて、安心しています。わたしを「安心させる言葉」を宣言なさったイエスの生き様に魅(み)せられました。だからわたしも、まるでイエスのように、「あなたが一人であったとしても見捨てない、ぼくは助けに行く」と言える者になろう、としています。あなたを安心させるために。

 

西野バプテスト教会

↓ユーチューブ↓

https://youtu.be/BonJ1shmCUQ

 

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