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「人が神を規定する」20210228

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「人が神を規定する」20210228

聖書 マルコ福音書 節~

 

 ずっと同じようなことを言っておりますけれども、そんなことしかできないので、我慢していただくしかありませんしかも最近はことばを濁(にご)さないので、さらに過激さが増してきて恐縮しています

 相入れない考え方は、理解できないものですから、素通りさせてしまった方も多いでしょう。また、まさかそんなことはないだろう、とお思いになるほどに過激な説教を何度か聞いているうちにようやく、ああそういうことか、とお気づきになった方もおられるでしょう。もういいかも、と思われる方もおられるようです。

 

【神はいない】

 特に、先週のような問題発言を聞かされて、みなさんはどうお感じになっただろうか、とぼくも考えておりました。これも、なんども言ってきたことですけれども、お聞き逃しのないように、もう一度はっきり言わせていただくことにしました。

 おぼえておられるでしょうか。自分のため国民を犠牲にするような支配者のような神や、いくら願っても、直接応えてくれる神はいない、というのが事実ですと言いました。そして、「神は直接応えて下さらない」とぼくは言っておりません。「直接応えてくれる神はいない」と言ったです。問題発言です。と念押しまでしておきました。ぼく強調したかったのは「神はいない」ということでした

 教会の牧師がなんということを言うだ、とびっくりなさるでしょう。けれども、冗談で言っているじゃありません。衝撃的ですけれどもこれくらいの表現をしなければ、ぼくのことばをいい意味に誤解なさる方がいるだろう、と思ったので、キッパリ言い切ったです。

 

【神のイメージは十人十色】

 心底から無神論者だと自称する人以外は、善悪によらず、どんな人も、何か、おぼろげに神のイメージを持っていると思います。

 どうしようもない出来事に襲われそうな時には「神様助けて下さい」と叫ぶぐらいのイメージくらいはお持ちです。たぶん育った社会で教え込まれたものです。

 日本には、八百万(やおよろず)の神というイメージがありますから、神の個性は明確じゃありません。けれども、一神教を信じるユダヤ教やイスラム教が支配的な国強烈な個性を持っています。キリスト教国でも似たところはありますけれども、すこし柔軟な気もします。

 一神教の宗教圏においては「神とは云々(うんぬん)だという議論昔から盛んにおこなわれていますそんな神の個性的なイメージを鮮明に教える社会でイエスは育てられました

 

罪人は造られた

 旧約聖書の中にもいろんな神のイメージが混在しておりますが、律法主義というものは、律法の教えに従わない者には罰を与える支配的なを教えます。

 律法の命令というのは非常に多くて詳細で、生活を厳しく規定するものでした。イスラム教徒は現在でも一日何度も礼拝なさいます。そのように命じられているからです。

 日本では、神棚や仏壇に、朝晩手を合わせる人は多いでしょうが、修験道に励んでおられる方以外では、それほど厳密な礼拝生活を強いられてはおりません。そもそも、現代の日本でそれほど窮屈な生活を求められても実現不可能です。

 ユダヤ教の社会でも、律法の規定を正確に守れる人は多くはなかったでしょう。むしろ、律法やその解釈から派生した生活様式に従うことができない人の方が多かったはずです。

 律法を守れる人と、守れない人がいて、そういうことから、民は明確に区別されていたようです。区別は自(おの)ずっと差別に繋がります。

 義人とか罪人と呼ばれる人々は、このような差別から生み出されたのでしょう。

 

裁く神も赦す神もいない

 イエスは、生まれも良くありませんでしたから、初めから罪人に分類されただったでしょう。そういう人でも律法の教えに従いつつ生活を清く保てば、義人に成れると思っていたでしょうし、そのように教えられてもいたはずです。

 しかし、どう頑張ってみても、心底から清くなれないことに苦しんでいでしょう。だからじゃないでしょうか。ヨハネの下に行って、神様から罪を赦してもらうために、罪を悔い改め、バプテスマを授けてもらい、荒野で修行したに違いありません。しかし、修行したところで欲望を抑えることなできないと悟ったイエスは、修行を捨てて、街の生活に戻っただと思います。

 ただし、これは完全にぼくの想像でしかありませんけれども、きっと、修行が辛くて止めたじゃなくて、人の行動や生活の仕方を批判したり、それゆえに裁いたり滅ぼしたりする神などいない、と悟ったにちがいないと思います。そうだとすると指導者や知識人と呼ばれる人々が教えていた神のイメージを否定したということです。「神とは云々である」と教えられてきたことがおかしいと気づいたでしょう

 すなわち、おこないによって人を値踏みして喜んだり怒ったりする神様なんて、いるわけない、と悟っただといます。

 キリスト教会では神様はね、人を裁きたいじゃなくて、赦そうとしておられるだよと教える人もおられますとえそう言ったとして「神様は云々です」と教えていることに変わりはありません。どうしてそんなに軽率に「神様は云々です」などと言えるのか不思議です。その姿勢こそが多くの争いや災いを招いて来たですから、そんなことを言うべきじゃないとぼくは考えています。

 「神はすべての人を愛しておられる」と言う人に訊きますが、「それではなぜ苦しみの中に生まれ苦しみの中で死ぬ人がいるのですか」信仰生活に忠実に生きようとしてきた人がなぜ苦しんで死んだりするですか」。このような問いに答えること出来ないはずです。

 裁きについてあれ愛についてであれ神は云々ですなどと軽はずみに語れば、それで救われる人もいるでしょうが、苦しみが倍化される人もいるはずです。

 律法や聖書に従わなければならない信じている人に言わせていただきます。それならそれで、「神の名をみだりに唱えてはならない」という命令に従ったらいいじゃないですか。

 人類の知恵である十戒の中で、「神の名をみだりに唱えてはならない」と、はっきり警告しているのは、「神は云々を望んでおられる」とか「神は云々を望んでおられない」などと、人間が言うこと自体を放棄しなさい、ということです。

 「神は意味なく人を苦しめません」「今のあなたの苦しみには意味があるのです」「神は苦しんでいるあなたを愛しておられるです」「神は愛なんです」などと、宗教者が言いましても、「神は云々です」と言っていることにはかわりありません。

神の言葉にしたがう人を神は喜んで恵みを与えてくださる」と言う人がいます。「たとえ命令に従えない人でも神は忘れておられない」と言う人がいます。いずれにしても、「神は云々である」と言っているだけです。しかし、噂しか聞いていない会ったこともない神についてよくもまあ抜け抜けとえるだと、呆れます。

 一人の人間に過ぎないぼくでも、「あなたはこんな人です」などと言われたくありません。だってそうでしょう。親友家族であっても、その人の抱いているイメージは、ぼくそのものではなくて、その人の中に出来たぼくというイメージのほんの一部分でしかありません。そんな人からあなたはこんな人ですだなんて言われたくありません。よく話をする関係の人同士でもそうなんです。ましてや、見ず知らずの神について、「神とはこんな方です」などと、規定できるわけありません。

 だから、「神は云々である」とか「神は云々と思っておられる」などと教えている人々がイメージしている神など「いない」ということが、ぼくたちが言い得る言葉です。

 今まで教えられて来たイメージを捨ててしまうこと、すなわち「イメージしてきた神などいない」ということです。

 

【福音は簡単なことばで表せない】

 新約聖書の中に「福音とは云々だ」という言い方があります。有名なところでは、コリント前書十五章一節〜十一節です。パウロが紹介している言葉であることから判りますように、パウロが伝道を始めた紀元五十年頃にはすでに教会の中で纏められ、広められていた言葉で。そのような短い言葉で表現することが流行っていたでしょう。けれども、んな教義のような言葉ではイエスの生き様ぜんぜん伝わりません。イエスの具体的な生き様がないことを不満に思ったマルコは、物語形式でイエスの生き様を紹介するために福音書を書いただろうぼくは想像しています。

 その際にマルコが伝えたかった物語というのは、一つではありませんでした。この物語の中に示されているのがイエスの福音なんだ、などと言い切れなかったでしょう。あの物語にもイエスの福音が示されているいやいやそれだけじゃなくて、他の物語にも、イエスのいろいろな生き様の中にイエスが伝えたかった福音の様々な姿がった。マルコは、それらすべて伝えずにはれなかったでしょう。

 マルコは物語の初めに、「イエス・キリストの福音の始まり・はじまり・・・」、と前口上を述べて、その後、彼の福音書の最後まですべてイエスの福音として語り出しただと思います

 教会が、十節あまりの箇条書き程度に纏めた言葉じゃなくて、知っているかぎりの物語を書き連ねただろう、とぼくは考えております。

 「神は云々だ」「キリストは云々だ」と軽率に言えないから、「イエスはこんなことも、あんなこともなさいました」とマルコは伝えたに違いありません。

 マルコは、拙(つたな)いギリシャ語しか書けなかった人だったのかもしれませんが、ほんとうに思慮の深い人だったと思います。

 

【ぼくたちは】

 「〇〇様は云々だ」と教えるあまたの宗教「神は云々だ」「キリストは云々だ」と教えるキリスト教も同じ穴の狢(むじな・タヌキ)です。宗教が作り出したイメージの神に救いはありません。しょせんイメージに過ぎず、そんな神は実在しないからです。

 しかし、ぼくの独りよがりかもしれませんが、イエスの生き様の物語を聞ことで救われる人は、まだまだたくさんおられる、と思います。なぜなら、イエスの福音は、「イメージの神を教える宗教に囚われている人」を解放するからです。

 ですからぼくは、あと少し、自分のできる間は、イエスの生き様を伝えて行くつもりです。

 ここ数年数名が自主的に教会を卒業なさいました。それもいいと思います。けれども、今もまだ、イエスの生き様に興味があるとか、イエスの福音の影響を受けたい、とお思いの方は、これからもぜひご一緒ください。

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