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「見守る」20210905
「見守る」20210905
聖書 ルカ福音書 十章三十八節~四十二節
『一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働きながら、イエスに近寄って耳打ちした。「主よ、妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝うようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ
この物語は、福音書記者ルカのスクープです。。すなわちマタイ、マルコ、ルカという三つの福音書の一つルカよる福音書に固有の記事です。
今日の登場人物はマルタとマリアという姉妹です。テーマは、どこにもある人間関係のすれ違いです。犯罪でもありませんし、宗教的な掟(おきて)に関することでもありません。
旅回りのイエス一行を、迎え入れたのは、家を切り盛りしていたマルタです。先週の話でイエスを食事に招いたのはファリサイ派(分離派)の家の主人でしたが、今日の舞台は、イエスのシンパ(共鳴者)の家です。食事や寝床の提供をすることによって、イエスの宣教活動を支えた人々がいたようです。
イエスを自分の家に招き入れた手前、姉マルタは精一杯もてなしたくて忙(せわ)しなく働いていました。一方、妹のマリアは、イエスの足元に座って、イエスの話に聴き入っていました。イエスの言葉を聴くために集まった客たちがいたとすれば、その人々を差し置いて、特等席を占(し)めていたことになります。こうなりましたので事件に発展しました。
一所懸命にイエスをもてなそうと奮闘していたマルタがマリアに腹を立てるのは理解できます。このように家族の気持ちがすれ違うことはぼくたちにもよく起こることです。
姉の憤りがみなさんには手にとるようにお判りになりますでしょう。「妹がわたしだけにもてなしをさせていることを何ともお思いにならないんですか。手伝うようにおっしゃってください」とまで言っているように、マリアを平気で足元に座らせているイエスをも批判しているんです。マルタはこともあろうに、最ももてなしたかった客人イエスを批判しつつ、現状を打開してくれるようにと泣きついているんです。
【イエスの答えは期待外れ】
ところが「マルタ、君は多くのことを思い悩み、心を乱しているんだよ」「でも、必要なことは一つだけだ」「マリアは良い方を選んだ」「それを取り上げちゃいけない」とイエスは意外な答えをマルタに返しました。
接待のために忙しく働いているほうが悪くて、イエスの足元で、話しに聴き入っているマリアの方が良いことをしているみたいで、イエスの言葉に腹を立てる人々も多いはずです。
【マルタは模範的】
「先生、何とも思わないんですか」と問うたマルタには、マリアの態度が間違っているという、当時の社会通念が現れています。すなわち、接待のために働くマルタは当時の模範的な女性を代表しているように思います。
接待することが当然だとか、接待したいと思っているマルタの気持ちは判ります。問題なのはマルタとマリアの気持ちがすれ違っていることです。そんなマルタの気持ちをイエスは応援しませんでした。
【話しを聴くのも簡単じゃない】
マリアはずるい女のように見えますけれども、イエスの足元で話を聴いているのも、楽じゃなかったと思います。
弟子として紹介されているのが男だけであるということから判りますように、先生の話を聴いて勉強していいのは男だけで、当時の社会では、女のすることじゃありません。
女は家事でもしながら、漏れてくる話を、聞くことくらいしか許されなかったでしょう。そんな中で、一番弟子すら押しのけて、先生の足元に座って教えを聴いている姿は弟子たちの批判の的にもなっていたはずです。
妹マリアは、姉マルタの手伝いをして接待のするのが当時としては当たり前の姿だったはずです。ですから、そうとう批判的な視線を感じながらイエスの足元に座って聴き入り続けているのも簡単なことじゃなかったんです。
【イエスの返答】
「マリアは良い方を選んだ」という言葉をそのまま受け取ると疑問を感じますけれども、「自分が良いと思う方をマリアは選んだ」と考えれば疑問も解消されるでしょう。
社会的、常識的にどちらが正しいかではなくて、自分で良いと思ったことをマリアが選んだのであればマルタが姉であっても止めちゃならない、ということだとぼくは解釈しています。
しなきゃならないと教えられることはたくさんあります。したいこともたくさんあります。どこから始めればいいか判らなくなるほど、やるべきだと教えられたことはいっぱいあります。正直なところ、そんなもの全部をすることなんてできません。
ひとそれぞれできることは、質も量もことなります。気になること、やりたいこと、好きなこと嫌いなこと、向き不向き、学習に適している時期も学習のスピードも何もかもが人によって異なっているんですから、それらをもっと考慮しなければならないはずです。
マリアはその場の空気が読めない女だったのかもしれません。あるいは、ただイエスの顔に見とれたまま、身動き取れなかっただけかもしれません。いずれにしても、だれでも、できることしかできません。むりやりマリアに手伝いさせることはできない、というのがイエスの考え方だったようです。
一般的、常識的、平均的、社会的などとさまざまな言葉で表現される言葉では言い表せないのが個人です。全てを平均的にこなすことなどできませんし、こなす必要もありません。自分が良いと思った方を選ぶこと、そしてその決意を大切に扱ってもらうことが必要です。それぞれの価値観は、他者に押し付けることができるほど正しいものではありません。
【ぼくたちは】
自分自身の期待を自分で裏切ってしまうことさえよくあるのですから、他者が自分の期待に応えてくれることなどまずありません。他者に期待してもほぼ裏切られます。それは全員の感じ方や考え方が異なっている証拠です。
押し付けても絶対に思い通りになりません。できることは、相手の状態を見守ってあげることだけです。それが相手を本当に大切にすることです。大切にされたことを理解した人が、他者を大切にすることができるのです。
自分の判断を押し付けないで、見守ることしかできません。イエスの教えは、互いに見守ることだけです。このように、相手を大切にしあう関係が「愛」なのです。