説教の題名を押して下さい

「本当の仲間になろう」20230312

BFCFE5DE-6627-4DFF-81CE-6AD9374CC2A7.jpeg

「本当の仲間になろう」20230312

聖書 マルコ 十三

 

 大切な仕事をしようと思うと仲間選びが大切であり難しいものであることが判ります。

 ワールドベースボールクラシックで沸いてい侍ジャパンのメンバーを見て思いますのは、三十人召集した栗山英樹監督の人選の素晴らしさです。特に今まで知りませんでしたが、ラーズ・ヌートバー(セントルイス・カージナルス)選手の人柄と活躍がすばらしかったですね。大谷翔平選手などと共にチームを明るく元気にするところがいいなあと思いました。そういう人々を見つけてくる監督の目が一流だなあと感心しました。

 一方、日本の政治に目を向けますと、残念ながら三流だと言わざるを得ません

 岸田文雄総理大臣は人選に興味があるという話を聞いたことがありますけれども、その割に人選がへたくそです。と言いますのも、二ヶ月ほどで大臣を何人(四人)も更迭(こうてつ)しせざるを得なかっから

 ところで、ぼくらの主イエスの場合はどうだったのでしょう。ちょっと不安になってきましたね。イエスも人選がへたくそだったように思ます。

 

【弟子じゃなかった】

 後に周りの人々からイエス弟子たちと呼ばれるようになったようですが、初めから俗に言うところの弟子ではなかったとぼくは考えています。その理由は何度か話してきたように、弟子らしい様子が窺(うかが)えないからです。イエスと彼らの元々の出会いからして、イエス弟子を選んで召集したとはとてもじゃないが思えません。

 荒れ野の修行生活を捨てて、街に出てきたイエスが、その勢いで遊び仲間を誘った程度にしかぼくには思えませんでした。もしそうでなくて、今までほとんどの既成の教会で説教されてきたように、イエスが弟子たちを召集したのだとすれば、イエスは人選することがかなり下手だったことになります。なぜなら、彼らはイエスが伝えようとしていたことを理解できていなかったと思えるからです。当然、イエスをしっかりサポートしたとも思えませんそればかりではなくて、身の危険を感じるや否や、イエスの元からさっさと離れ裏切り者ばかりだったからです。そんな現実にもかかわらず、彼ら特別扱いされていることは解(げ)せません。

 

「十二人」と「使徒」は別もの

 マルコ三章十三節〜十四節には、イエスは山に登って、これぞと思う人々を呼び寄せて十二人を「使徒」(遣わされし者)任命なさったと書かれていますから、この時に特権階級を与えられたと思われがちですけれども、この時点においてはまだ教会の役職など無かったのですから、「使徒」という呼び名は後付けです。

 今日司会者に読んでいただいた六章七節以下三章の後に置かれているにもかかわらず、彼らは「使徒」とは呼ばれない「十二人」と呼ばれているに過ぎません。ようするに、イエスと行動を共にしていた頃の十二人は、ただの十二人であったのです。せいぜいのところ、彼らを見た庶民が、弟子たちだと思った程度です。

 「使徒」などと呼ばれる職種は教会組織の中でこそ権力の象徴を表す言葉ですから、イエスの時代にイエスから与えられた呼び名であるはずありませんイエス亡き後の教会を象徴する使徒たち、中でもその代表に選ばれた使徒ペトロには大きい職責と職権が与えられるようになったのでしょう。

 たとえばローマ法王のように、立派な衣装を着て王座のような椅子に座るとか、バチカンのサン・ペトロ(聖ペトロ)寺院のベランダから手を振るような、教皇ならではの仕事があるわけです。仏教のお坊様の袈裟(けさ)にも同様の働きがあります。法衣を着た人を見れば何をする人か予想することできます。警察官、医師、看護師のワーキングユニフォームを着用している人と同じように、何をする人か予想できるようになっているわけです。このように組織の中の職種が決まっている人々と、イエスと共に生活し、二人一組であちこちに送り出された十二人はまったく別ものです。

 「二人一組であちこちに出かけてこと言われた十二人は、着古しのままで杖一本の他には、食べ物も水も小銭も持たされずに突き放されたんですから、彼らはなんのために浮浪者のような格好で出ていかねばならないのか理解できなかったしょう。彼らの傍観者たちにも、彼らが何者なのかわからなかったはずです。

 もっとも、ぼくもよく「ところで岩本さんは何の仕事をしておられるんですか」と、怪訝(けげん)な表情で尋ねられます。

 このようなワーキングユニフォームを着ているときにはなんとなく想像できるようですが、確信がもてないようなのです。

 十二人たちも何をしていいか理解できていなかったのでしょう宣教させ、悪霊を追い出し、病人を癒すためであった説明されています。。わざわざこのようにしなきゃならないことを限定しているのは、そのように釘を刺しておかなければ、何をしでかすか判ったもんじゃないという疑いすら持たれていたかもしれません。イエスと共に居た十二人というのはその程度の人々であったのだと言ってよいでしょう

 また今日読んでいただいたマルコ福音書の並行箇所であるマタイ十章一節〜四節に「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」などと強調されているのも面白いと感じました。

 現代でもそうであるように、何をしてもらっても代金を要求されたんでしょう。占い師などに適当なことを言われただけでも代金を払わねばなりません。病院に行ったら、病気が治らなくても代金を請求されます。そんなもんです。しかし、イエスは「ただで与えよ」と言ったと書かれています。その意味は大きいと思います。

 福音書が書かれた頃、つまり早くても七十年前後の教会のような組織でさえ、福音を教えもらうにも、癒してもらうにも、悪霊を追い出してもらうにも金が必要だったのかもしれません。

 そういう現実がおかしいと思ったマルコが福音書を書いたのだと考えれば、イエスが十二人を送り出した頃の素朴な十二人と、目の前の教会の「使徒」たちの現状との違いが浮き彫りになって見えてきます。そして、初期の頃のことを思い出して欲しいという願いがこの福音書に込められているように思います。

 

【ぼくたちは】

 あちこちに十二人を送り出したイエスは、ご自身が伝えた福音を素朴に言い広める人たちを望んでいたのであって、教会という組織の職権を担う人材を作ったのではないと思います組織だけ大きくなっても、法衣を着た人と庶民の気持ちが離れて多くの人が具体的な苦しみから解放されないようでは意味ありません。

 イエスの望みは、素朴な十二人に望んだように、あちこちの病人を見舞い悪霊を追い出し罪の呵責から解放する仲間を得ることです。

 特殊な肩書きなんかなにも無くて良いのです。イエスは、具体的に人々を元気にできることを、一緒に担(にな)ってくれるような、気を許せる本当の仲間が欲しかったのでしょう。ぼくたち一人一人が必要としているのも、本当の仲間です。

1
Today's Schedule
2024.05.02 Thursday