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「女がイエスを育てた」20201004
「女がイエスを育てた」20201004
聖書 マルコ 七章二十四節〜三十節
マタイ十五章二十一節〜二十八節
何度も続けて旧約聖書を題材にして説教を続けて来ました。旧約聖書と聞いただけで、心を閉ざしてしまう方がおられます。ぼくとしては、どこの聖書の箇所を取り上げても、言いたいことは同じようなものです。だから、思い込みが強い人の心を開くために、今日は、新約聖書に戻ります。
新約聖書と言えば福音書が、福音書と言えばマルコ福音書が頭に浮かびますので、そこに戻ります。
ただ、今日は、同じ出来事を取り上げているマタイ福音書と比較してみたいと思います。書き方が違うことははっきりしています。その違いの背景にあるものが見えてくれば、ぼくたちの生き方の助けになりそうな気がします。
さて、ぼくの周りの人々が好きだとおっしゃる物語を取り上げました。異邦人の女を、イエスが差別して小犬と呼んだ物語です。娘に憑(つ)いている悪霊を払って、娘を病気から開放してほしいとイエスに願い出た女が登場しています。
【マタイとマルコ】
マタイによれば、「主よ、ダビデの子よ・・・」と呼びかけた女に、イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と女を突き放します。さらに、子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言います。これに対して、女は「主よ、ごもっともです。しかし小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と女は言います。そこでイエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と答えます。その時娘の病気はいやされた」とあります。女の「信仰」が、娘の癒しを勝ち取ったように思えますから、「信仰」に関する物語だと思う人が多いでしょう。新共同訳聖書の小見出しにも、確かに「カナンの女の信仰」と書かれています。立派な信仰は願いを叶える、とマタイは伝えたかったんでしょう。
ところで、マタイよりも先に書かれたマルコ福音書はこの物語をどう描いているでしょうか。
マルコによれば、イエスは「まず、子供たちに充分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言っただけです。
女は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供たちのパン屑はいただきます」と答えます。
イエスは「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊は、あなたの娘からもう出てしまった」と伝えます。女が家に帰ってみると。その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」とあります。とてもシンプルな物語で、「信仰」という言葉も使われておりません。ところが、マルコの小見出しにも、「シリア・フェニキアの女の信仰」と書かれています。
おかしいですよね。物語のマルコの本文を読む限りでは、女が立派な「信仰」を持っていたとは考えられません。
なぜこんなことになっているんでしょうか。端的にぼくの考えを申し上げますと、翻訳委員の先生方が、マタイの小見出しに影響されていたからだと思います。小見出しの「・・・の信仰」という言葉はマルコの物語に相応しくありません。はっきり言って蛇足です。
【マルコは淡々と描こうとした】
マルコは、出来事に、できるだけ注釈を付けずに、淡々とイエスを描こうとしたように感じます。それがマルコ福音書の特徴ですし、資料として優れている点だと思います。
福音書というジャンル(様式)を生み出したことが、イエスの行状に対する、重大で特殊な解釈である訳なんですけれども、そんな中にあっても、淡々と、イエスを語ることにマルコは精を尽くしたように感じます。なぜ、このような特徴ある物語を書いたのか、と言えば、たぶん、イエスの行状を伝えてくれる書物がなかったからです。
イエスという人に触れることができるような書物がなかったことに対する、反発から生み出された物語集だと言うことができます。
マルコ福音書が書かれたのは七十年以降だとぼくは考えておりますが、その頃までに、パウロの手紙類は、地方教会に流布されていたでしょうし、パウロの名を冠した手紙も流布していたことでしょう。それらの手紙類に表現されているイエスは、あまりにも神格化されたキリストです。そこでは、実際のイエスの人間像が見えません。イエスが見えなくなってしまっていることを嘆いたマルコは、イエスの原風景の物語を描いて、神格化されたキリストばかりを語る教会に問いかけたかったんだろうとぼくは考えています。
しかし、人間イエスを強調したマルコ福音書を読んだ人の中には、当然、マルコの主張を受け入れない人もいたはずです。その内の一人がマタイだったんでしょう。
マルコが描いた「人間イエスの物語」を承服できなかったマタイは「地上における神の子の物語」へと書き換えたんだろうと思います。
マタイが、「主よ、ダビデの子よ」と女に呼びかけさせていることや、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とイエスに言わせていることからも、神格化された神の子キリストを、主張していることは明白です。ここには、イエスこそ、イスラエルのために遣わされたメシア(救済者)である、というマタイの神学が色濃く反映されています。
マタイの表現によれば、イエスは、自分こそが、イスラエルのために遣わされたメシア(救済者)であると自己理解していることになっています。またカナンの女もそれを認めています。
イスラエルのためのメシアであることは判っているけれども、「主人の食卓から」「パン屑を落としてくだされば、それをいただきます」と言うのです。結果的に、マタイのイエスは自分を変更する必要がありません。
一方、マルコは「自分はイスラエルの失われた羊にしか遣わされていない」などとイエスに言わせません。「まず、子供たちに充分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と、自分の意見をイエスは言っただけです。自分の民族を子供たちと表現し、異邦人の女を犬扱いして差別していたことは確かです。
イエスから差別されていることを承知の上で、女は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供たちのパン屑はいただきます」と自分の意見を堂々と述べました。女は差別されても、決して自分を卑下(おとったものと考える)などしていません。だから、女は自分の気持ちを、そのまま素直に告げることができたんでしょう。女の勢いは、差別者イエスに、考え方の変更を迫ったんです。
イエスの差別に遭っても、引き下がらずに、女は執拗に、イエスに迫りかけています。根負けしたイエスは、「そこまで言うならわかったわい」と、自分の考え方を変更せざるを得なかったんだ、とぼくの目には写りました。
イエスが伝えた福音は、イスラエルの人々だけが必要としているものではなくて、イエス自身が差別して来た異邦人にも、必要なものだった、とイエスが気づいたのは、この女の反撃があったからだと思います。すなわち、イスラエル人と異邦人という差別をしてはならないのだ、ということを、イエスは、この事件を通して、この異邦人の女から教えられたんだと考えられます。冷静に考えてみれば、みなさんも、そう思えるはずです。
しかし、神の子が、異邦人の女に言い込められたようにもとれる表現を、マタイは見過ごせなかったに違いありません。イエスは神の子だと信じて教会に通っておられる多くの人にとっても、イエスが、異邦人の女に視野を広げられたなどということは、認めにくい、どころか、あってはならないことだと思います。そういう、気持ちを判らないではありませんが、それこそが差別です。
【イエスは被差別者】
この物語では、初めの内、イエスは、女を差別していました。けれど、考えてみれば、イエスも差別されていた人です。
ちょっと話は飛びますけれども、先週の水曜日に亀谷さんのお宅で執事会を行いました。早いもので、イエスの誕生祭、いわゆるクリスマスのことも議案に昇りました。
クリスマスと言えば、世間ではメルヘンチックな御伽話(おとぎばなし)ですけれども、ぼくが言い続けて来ましたように、イエス誕生の現実は、決して綺麗事じゃありませんでした。
マタイやルカ福音書は、美しい神話のように語っていますけれども、神話の中にも、隠せなかった事実が盛り込まれているもんです。たとえば、イエスが、未婚の母マリアから生まれたことです。婚約者ヨセフは、婚約を解消しようとしたとまで書かれています。そこまで書きたくはなかったはずですが、当時の人々が知っていた隠せない事実だったから書き込まざるを得なかったんでしょう。そうだとすれば、当時のことですから、イエスこそ差別されたはずです。被差別者イエスが、女をイスラエル人じゃないということで差別していた、という事実が、この物語では明らかにされています。
イエスを、生まれから数奇な運命を背負った特別な神の子として描こうとするマタイやルカ福音書の神話を聞いて育った方々は、イエスは初めから欠けのない神の子であったと考えがちです。けれども、初めはイエスも未成熟な人であった、という事実をマルコのこの物語は示しています。
イエスは、いろんな人と出会い、教えられ、自分の行状を反省し、自分の主張を練り上げることができたんでしょう。神の子キリストじゃなくて、素朴な人間イエスを、マルコはできる限り素朴に伝えたかったんだと思います。
イエスは、ぼくたちと同じ人間であったどころか、ぼくらには考えられないほどの差別を受けて苦労して育った人でした。この事実をマルコは大切にしたんだと思います。そんなイエスに対して、福音に差別を持ち込んじゃいけない、ということを教えたのは、異邦人の女だったという物語を、マルコは、わざわざ福音書に載せたんです。
【ぼくたちは】
マルコの主張を、ぼくも大切だと感じています。イエスは天から降りて来た神の子じゃない。当然、上から命令するような人じゃない。差別される苦しみを知っている人です。だから、女から教えられたことを聴いて、考え直すことができたんでしょう。そのように、イエスは、差別していた異邦人の女によって育てられなきゃならなかったほどの人です。差別される苦しみを知っていた人です。だから一緒にいても安心できるんです。
権力を翳(かざ)す神の子じゃダメです。権力者は裏切るから安心できません。だから、イエスが「人の子(人間)」であることが大切なんだ、とマルコはそう考えました。ぼくもその考えに賛成です。