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「感情を超える理念が必要」20230305
「感情を超える理念が必要」20230305
聖書 マルコ 三章二十節〜三十節
先月、ある本が出版されました。生前の安倍晋三元総理に読売新聞の編集委員たちがインタビューした記録を回顧録(かいころく)という形で出版したのです。その中で、ぼくがとても楽しくなった記事を紹介いたします。
習近平氏は「自分がもし米国に生まれていたら、米国の共産党には入らないだろう。民主党か共和党に入党する」と言ったのだそうです。(安倍晋三回顧録、二〇二三年二月、中央公論新書、一八七頁)
すなわち、政治権力を掌握するためには、政治的な影響力を行使できない政党に入ったのでは意味がないから、習近平氏は建前上、共産党に入ったということです。共産党の理念に心酔(しんすい)していた訳では無いということを知らされて腑に落ちたことがいくつもありました。
習近平氏は思想信条を守るためではなくて、権力を握るという信念で生きている。決して中国の共産主義に惚れ込んでいる訳ではないということですから面白いです。
中国で権力を手に入れるためには、とにかく勝ち組の一員にならねばならなかったから共産党員になったのです。
習近平氏が、思想信条によって生きる者たちを平気で弾圧することができるのは、思想や信念を守るために生きている人のことなど理解できないからでしょう。実利のない生き方を選んでいるひとなど軽蔑しているから、そんな相手を平気で粛清できるのだと思います。
【理念か実利か】
このように権力と実利によって動かされる人と、思想や理念によって動かされる人が社会に存在します。これら二つの部分の一方しか無いというのではなくて、二つの部分を人間は兼ね備えていると思います。どちらが強く表面に出てくるかという違いによって、人々は分かれるのでしょう。
どちらが良いとは言えません。しかし、どんな理由があろうとも、他人から搾り取るとか、他人を殺してまで自分の欲しいものを手に入れる人を許してはなりません。他人を無視し、他人のものを奪うことは悪で、モーセの十戒が示している罪です。ですから、そのようなことだけは慎まなければならないのです。
今回のロシアとウクライナの戦争においても、背景を探ってみると、非常に複雑です。日本の多くのメディアは、アメリカの息がかかっているために、ロシアを悪者にしますけれども、本当のところ、どちらにも非があるでしょう。片方だけが悪者だと決めつけることはできません。いずれにせよ、目的のためには手段を選ばないとか、誰が死のうがかまわないという生き方は多くの人を悲劇に陥れますから、まずは殺し合っている現状を止める必要があります。
【実利を求める者が邪魔をする】
どんな理由があろうとも、一部の人が満足するために、弱い立場でつつましく生活しているたくさんの人を犠牲にするなんてことは許せません。早く止めるべきです。
どこで、どの時点で止めればいいかなどと考えている暇はありません。とにかく今すぐに、このままの状態で互いに手を引くべきです。それが互いに最も被害の少ない状態で収束させることになるのは明白です。とりあえず止まって、互いに生き残るための話し合いを始めるのが一番必要です。
そうであるにもかかわらず、戦争によって大儲けしている人は停戦を阻(はば)むに違いありません。あまりにも巨大な利権を握っている者がいるために、決着がつく問題ではないのですが、それでも、即時停戦が現時点の最善策です。誰も実施しようとしませんが、どんな妨害があろうとも、理論的にまず現状のままで停戦することが被害を最小限に抑える最善策です。
【理念で感情を超える】
さてこれほど論理的で実質的な案があっても実現しないのは、それぞれの欲望、損得、愛憎が絡むからです。それらは全て、感情的なものですから、感情的には解決のしようがありません。感情を超えるものが必要です。ですから、感情を超えた理念を打ち立てなければ欲の衝突を治めることはできません。
一つの家に二人が住んでいれば、欲が二つ存在するのですから、必ず衝突します。熟年夫婦間の殺害事件がニュースになっている通り、衝突が互いに我慢できない域に達してしまえば事件になります。
また、日本でも、三組に一組が離婚するほどになっているのだそうです。相手を抹殺する前に離れましょうということなんでしょう。
稀(まれ)に相性の良い人に出会う場合もあるでしょうが、ほとんどの場合、どちらも我慢しているはずです。一軒の家の中でさえそうなのですから、生活習慣が全く異なる国民が集まれば衝突が起きるのは当然です。
そうだとすれば、互いに我慢するか離れて暮らすしかないのです。我慢して一緒に居続けても、時が経てば、力の強い者が我慢できなくなって弱い方に我慢を強いるようになるでしょう。そのような支配と服従の関係になることを防ぐために、すべての権力にまさる権力者からの命令が必要だと考えた人が、神による命令という技法を思いついたのでしょう。それでも結果は好転しませんでした。なぜそんなことが判るかといえば、このような命令を出し続けなければならない状況が続いていたことから明らかです。
だれから何を言われても、隣の家の大事なものを盗む者がいるというのが常なのです。
宗教が登場して、最高権力者いわゆる神(お上)に頼って紛争を治めようとしたけれどもできなかったのです。なぜなら、宗教も権力主義であるからです。とどのつまり、人を権力で抑えることはできないのです。
悪霊同士でも、気に入らない相手を勝手に追い出すことなんかできない、とイエスは言いました。面白い比喩です。悪霊の親玉に頼んで他の悪霊を追い出そうとすれば、悪霊の社会でも混乱して成り立たなくなると言ったのです。
悪霊の国が実際にあるという意味ではありません。悪霊の国が何処の国だとは申しませんが、今の世の中の混乱を小気味よく言い当てています。イエスの言葉通り、どんな国であれ組織であれ、権力闘争すれば成り立たないのです。
【ぼくたちは】
ですから、人間社会に起こる問題を解決するためには、人間自らが考えなければならないのです。そうであるにもかかわらず、権力に頼ろうとするばかりで、人類は自助努力を怠ってきたから現状のような社会になったのでしょう。
しかし、どんな権力者から命令されたとしても、人間は納得できなければ、建前上従う振りを見せながら、内実は従っていないのです。ですから上下関係を考慮せずに、平場で人間同士で、認め合うまで話し合って、被害を最小限にしようと努力する以外に解決法はないのです。これがイエスが語った「互いに愛し合え」とか「敵を愛せよ」という言葉の意味です。悪霊にさえ思える敵であっても、同じ土俵に上がるしかないのです。人間間の問題は、このような理念によってのみ解決するはずです。これはぼくたちの身近の人間関係においても同様であることを覚えておいてください。