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「生まれじゃなく生き様が大切」20201220
「生まれじゃなく生き様が大切」20201220
【プレビアス・前回のあらすじ】
先週は「お互いが救い主です」という内容で話しました。メシア(救い主)というのは、人類の全歴史を通して一人の個人を指す言葉じゃなくて、いろんな年代に、いろんな場所に存在するということです。小さな単位で考えれば、一人一人が隣人の救い主になり得るということです。
ヨセフがマリアの救い主であったように、マリアとヨセフがイエスの救い主であったことは明らかです。この事実から、メシアが個人を指す言葉でないことは理解していただけるでしょう。
さて、きょうは「クリスマス」です。この言葉が「キリスト礼拝」という意味であることが端的に表しているうように、キリスト教にとっては、キリスト(メシア、救い主、選ばれし者)が生まれて下さったことを感謝する祭りです。
ぼくは「人間イエスの誕生」を強調していますけれども、教会はそうではなくて、「キリストが降臨なさった」という教義を強調しています。
ただ単にシングルマザーから男の子が生まれた、ということなら、他にいくらも存在します。しかし、その子「イエスがキリストである」という主張を元にクリスマスは祝われているんです。教会のこの告白なしではクリスマスはあり得ません。だから、教会のクリスマスは、イエスだけがこの世を救うキリストなのだと主張するために、教会が作った祭りです。一人の人間として生きたイエスの誕生を祝う祭りではなくて、キリスト(救い主)が、天からこの世に降りて来た、と教えるための誕生物語であることを覚えておくべきです。
【マルコは誕生物語を書かなかった】
しかし、最初の福音書を書いたマルコは、イエスの誕生や子ども時代の逸話を書きませんでした。あくまでも人間イエスに焦点を当てていることから判るように、天から降りて来たキリストという概念を持っていなかったように感じます。
イエスの登場は突然です。生まれや育ちを説明していません。ただガリラヤのナザレという田舎村から出て来た、と伝えているだけです。田舎者の青年(成年?)であったことがわかる程度です。突然に現れたイエスは、ヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けております。
ルカ福音書では、ヨハネの母エリサベトとイエスの母マリアは親類だということになっております。つまり、ヨハネはイエスの一つ年上の親戚関係であったように書かれています。真偽の程は判りません。とにかく、そんなことはマルコにとってはどうでもいいことです。それよりも、イエスがヨハネの洗礼を受けたことの方が重要です。つまり、イエスといえども、ヨハネの教えに心を動かされた当時の他の青年たちと同様であった、ということです。
生まれから特別な存在でなければならない、というような縛(しば)りが無いわけです。これは重要なことです。なぜかと言うと、そんな縛りがあれば、何度も言いますように、特別な家系であったり、天からの力によって生まれた、というような条件が不可欠であるならば、ぼくらに関係ない存在で、近付き難い存在になるからです。
天皇陛下が、専用の車から降りて、被災者の近くに行って、膝(ひざ)を床(ゆか)につけて、庶民と同じ目線で話しかけて下さったとしても、特別な方であることにはかわりありません。ぼくたちが常に付いて回ることもできません。ぼくらが陛下の代わりに、何かを為すこともできません。
イエスが特別な人であったならば、イエスが殺された後に、ガリラヤではすでに、誰かがイエスに成り代わって福音を伝えている、なんてことは起こり得なかったでしょう。イエスを田舎出身の若者として登場させた、ということは、マルコの復活理解にもつながる重要なファクター(要素)なんです。
マルコが育った教会では、今のような形に整えられていなかったにしても、イエスの誕生物語がすでに語られていたであろう、と想像できます。
そんなものがあったとしても、いやむしろ、いくばくかの誕生物語があったからこそ、マルコは、イエス誕生に関わる逸話をすっとばして、ガリラヤのナザレからヨハネの下に出て来た当時の青年イエスを、突然登場させたんだと思います。
昔の偉大な預言者イザヤの預言を紹介しているにしても、預言を成就する者が、天から降って来た証拠ではありません。
後から来られる方の、靴の紐を解く値打ちも自分には無い、と言ったヨハネの謙遜の言葉も、イエスがヨハネからバプテスマを受けて、しばらくの間ヨハネの下で修行していた事実が示す上下関係を逆転させるために、教会が作り出した逸話だと思います。
そんなことは、どうでもいいことであって、とにかく、イエスが天からとか、天の力によって此の世に生まれたんじゃなくて、イエスはガリラヤのナザレから出て来た、ということがマルコの重要な主張です。
二つは、ぜんぜんちがうでしょう。イエスは天や聖霊の力によって生まれた、と言うのと、ガリラヤのナザレから出て来た、と言うのとでは、意味がぜんぜん違うということが判っていただけますでしょう。とにかく、イエスは天から降って来たんじゃない、ということをマルコは強調したかったんです。
【クリスマスはイベント】
クリスマスだからという理由でせっかく教会においでになった方がおられましたら、まことに不適切な説教をしている、と思いますけれども、しかし、しょうがないんです。イエスの誕生物語よりも、大人になったイエスが、どんな活動をなさったか、ということの方が大切だと思うもんですから、誕生物語についてあまり語るつもりはありません。
これほどクリスマスの行事が有名になったのは、商売の道具、商売のイベントとして取り上げられたからです。今では切っても切れないサンタクロースとプレゼントも、切っ掛けになった実話が確かにあったとしても、これほど多くの人に浸透したのは商売人の努力があったからです。
教会も負けまいとして飾り立てようとしますけれども、予算の差もあるので、商業施設の飾りつけの前には、風前の灯火(ともしび)です。
もともと、キリストの誕生を祝うクリスマスは、キリスト教がローマ帝国の国教になった時に、それまでローマの宗教であったミトラ教の祭りを乗っ取ったようなもんです。勢力の強いものが、元来の制度を利用しただけのことです。金儲けの神様がキリスト教という宗教のイベントを乗っ取ったことに対して、とやかく文句を言い得る筋合いはないのであります。
【生まれよりもイエスの生き様】
当時のユダヤ教の教えを受けて育ち、自分が救われることを願って、真面目に鍛錬するために、故郷を離れて、ヨハネの教えに感動して、ヨハネの下で修行したんでしょう。しかし、修行によって救われることなどない、と悟ったイエスは、ヨハネを離れたんだと思います。とことん修行を積んでも、救われない。そもそも救いなんてものは抽象的な概念じゃなくて具体的な安心を与えるものだと悟ったはずです。人間はみな罪人だと教えて来た宗教の教えの根底を、悟りによって、イエスは壊すことができたんだろうと思います。
それまでの宗教が、神に近づくために自分を正せ、と教えて来たことに真っ向から対立して、「神の国は近づいた」と言いました。こちらから近づかなくても、向こうから来るもんだ、と言ったんです。この言葉によって、既存の宗教と完全に対立したことは明らかです。
そして、このような、喜ばしい情報(福音)を信じなさい、と言い回ったんです。
はじめはだれもその言葉の重さに気づかなかったようです。いやいや、そんなもんじゃ済みません。現在でも理解されていません。
多くの教会で語られている説教を聞いてみると、イエスが語った福音をまるで理解していないように思えます。
世の罪を取り除くために、なぜか二〇〇〇年程前に、イエスだけが救い主として、この世に天から降って来られた、かのような宣教がなされております。すべての人は罪人であるため、イエスの血による贖いを受け入れなければ救われない、というような教えは抽象的であって、具体的な救いがありません。
罪を押し付けておいて、そこから救ってやる、というのは、火を付けておいて、消してやるぞ、という、まさにマッチ・ポンプの論理です。
赦された罪人が、それからも人間関係を壊す罪を犯し続けることを解決できません。そんな救いはぼくたちの具体的な救いになりません。
イエスは、罪人だと言われ続けて来た人々を、そんな罪の抑圧から開放するために立ち上がりました。具体的な抑圧から自由にするという具体的な救いをイエスはもたらしたはずです。
【ぼくたちは】
自分は罪人だと思わされている抑圧から解放されてこそ、人は、自由に自分の発想を伸ばすことができます。それが救いの効果でしょう。
多くの人が互いの救い主になって、自分自身のの罪の呵責に悩んでいる人を解放し、具体的な生活を助け合うようなことが起これば、そんな状態が、イエスの言う神の国だと思います。
そんなふうになっていくためには、救い主は一人じゃ足りません。イエスは既得権者に殺されましたけれども、その後を引き継ぐ人が現れ続けています。それが復活の意味です。メシアは殺されても復活してくるんです。つまり、メシアも復活も、個人を指すことばじゃなくて、複数の関係を指す言葉です。
生まれに関係なく、その人がどう生きるか、悪魔のように人を食うような生き方をするか、だれかのメシアとして、人を助けるような生き方をするか、という生き様が大切なんです。生まれ縛られないのだから、ぼくらも救い主になれます。
あなたの側(そば)にも、あなたの救い主になる人がいます。これが、「イエスの誕生」から言い得る福音です。