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「ギブアンドテイクじゃない」20200823
「ギブアンドテイクじゃない」20200823
聖書 ヨハネ福音書 八章 一節〜十一節
先週は、日本社会の慣例であるお盆休みに合わせて、教会の礼拝をお休みにしました。クリスチャンになると日曜日は教会に縛られると思っている人もいますが、ぼくたちは、そうは考えません。とはいえ、日曜日の礼拝を休むと寂しいもんであります。二週間ぶりの礼拝を、首を長くして楽しみに待っておられた方も多いと思います(笑)。
さて、今日も簡単なこと、聴けば楽になる説教をお届けしましょう。
【イエスの福音に犠牲は不必要】
何かを手に入れようとすると、代価を支払わなければなりません。ギブアンドテイクが世の常であります。そういうことが常識だと教えられてぼくらは育ちました。そんな常識に託けて(かこつけて・口実にして)一般的な宗教は神仏に捧げ物をしなければならないと教えます。良い恵を頂こうと思えばそれにふさわしい捧げ物をしなければならないと教えますし、何か罪(神を怒らせること)をした時には赦してもらうために犠牲を捧げたり、時には自分を捧げて奉仕しなければならないと教えます。
ユダヤ教もキリスト教も、人間という存在は、神に逆らって神を怒らせた罪を持っているものだから、神様から赦してもらわなければならない。そのためには、犠牲を払うことが必要だと教えます。
犠牲や供物をするように教えているところをみると、宗教は商売しているんだな、とぼくは悟りました。神仏が人間を保護する代価として、人間に供物を求める、という考え方は、疑うべきです。宗教の教えを、ぼくが疑うことができるようになったのは、イエスが教えた福音を知ったからです。
イエスは、条件など何も持ち出さずに赦しを宣言しました。イエスの福音は犠牲を要求しません。それがイエスの福音です。ということは、この点において、イエスの福音は、普通の宗教じゃありません。宗教じゃなくて、むしろ、宗教に対立する教えです。
【人間が下品な神を作った】
先々週(八月九日)の礼拝では、「試練を与える神などいない」という題で説教いたしました。簡単な内容でしたから覚えておいででしょう。説教題の通り、人の心を試すために試練を与える神なんかいない、ということでした。
部下の忠誠心や恋人の愛を試すなんてことは、品位のない人間がすることです。それほど下品なことをする神様なんかいるはずありません。冷静に考えれば、誰にもわかることです。
信仰の父と呼ばれたアブラハムは、良く言えば、信仰深い人ですけれども、実は、思い込みの激しい人でした。神様には絶対に服従しなければならないと教えられて育ったんでしょう。彼は、信仰を極めるために、命よりも大切な息子を殺す寸前のところまで行ってしまったほどの狂信者でした。
最良のものを要求する神様を自分の心の中に作ってしまったアブラハムは、神様の虚像(偶像)に一所懸命に仕えようとしていただけです。長男を捧げよ、と命令する神様なんかいるはずありません。
どんな宗教においても、自分を捨てて、神仏に仕えるようになどと教えます。しかし、これは神仏の命令じゃありません。人と神仏の関係を教えようとする人間が考え出した自己中心の命令です。
神様を見たこともないし、声を聞いたこともないし、まったく知らないのに、「神様は・・・こうなんです」なんて言っているんですから、嘘八百です。神様について教える人は、神様を利用して、自分の利益になることを言っているだけです。そんな人の言うことを絶対に信用しちゃいけませんよ。冷静に考えれば、わかるはずです。人間に忠誠を求めたり、最善のものを捧げるように命ずる神仏なんかいるわけありません。
【贖罪論(しょくざいろん)は人が作った】
もう一つ信用しちゃいけないことをお知らせしておきます。それは、キリスト教の中心になっている神学です。キリスト教の問題点を指摘するために、まず、キリスト教の教えというものを簡単にまとめてみると、次のように言うことができます。
罪によって滅ぼされるべき全人類に代わって犠牲になって自分の無垢の命を捧げるために、神の子であったイエス様は、天を離れて、地上にお生まれになって、全ての人の罪を背負って十字架にかかって死んでくださった。そのことを信じ、罪を悔い改めって、バプテスマを受ける者は罪を赦され、救われて永遠の命に迎え入れられる。
この教えの中心に置かれているのが、イエス・キリストは、神様に対する人間の罪を全て背負って、身代わりの犠牲になってくださった、という教えです。贖罪論(しょくざいろん)と呼ばれています。
贖罪論は、神様に対する罪を赦していただくためには、犠牲の動物や捧げ物をしなけりゃならないという、ユダヤ教の律法に書かれた教えで出来ています。キリスト教も、同じ贖罪論の延長線上にあります。ですから、ほとんどの教会で、当然のことのように教えられているキリスト教神学の中心です。これらの宗教に登場する神様の特徴は、命令に従わなかった人の罪をタダじゃ赦さないという性質です。罪に見合う代価や犠牲を要求する神様なんです。
このように説明すると、キリスト教の神学が、ギブアンドテイク、俗な言葉で言うと、商売の論理で作られていることが判ります。
商売の論理は、多くの人が理解しやすいんでしょうが、論理に矛盾があります。なぜなら、代価を求める「赦し」などあり得ないからです。
【キリスト教の赦しは本当の赦しじゃない】
人間関係にたとえてみても判ります。たとえば、お父さんが大切にしていたワイングラスがあって、それには触ってはならないと子供に命じていたとしましょう。ところが、ある晩に、ワインを飲み過ぎたお父さんは、グラスをしまわないまま寝てしまいました。朝早く、まだ親が寝ている間に水を飲みたくなって起き出した子供が、テーブルに出ていたワイングラスを使おうとしたところ、手を滑らせて割ってしまったとしましょう。お父さんが起きてきてそれを知ったらどうするでしょう。なんてことしたんだ。触るなと言っておいたはずだぞ。どうするんだ。赦さない。と言って怒るかもしれません。
大切な人からもらった掛け替えの無い記念品だったとすれば、同じ物を買って返したとしても、償いきれません。そもそも子どもが償うことなど不可能です。
そんな時、お父さんは子どもを赦さないでしょうか。弁償するまで赦さないぞ、と言ったとしても、いつまでも子供を赦さない、なんてことはないだろう、とぼくには思えます。
このように、グラス一つのことであっても、決して元に戻せません。元の状態が回復できなければ、親子関係は壊れたままになるんでしょうか。お父さんは、なんだかんだと文句を言うかもしれませんけれども、だからと言って、子どもと完全に縁を切って、子供を家から追い出す、てなことはないだろうと思います。
親子の気持ちがギクシャクすることがあったとしても、グラスを割る前も割った後も、父と子という関係は変わらないはずです。
ですから、買い戻すとか弁償するとか、そんなことが出来なくても、父は子を赦しているんじゃないでしょうか。弁償しろよ、と言うくらいはいいですけれども、そう言った時には、すでに赦しているんだと思います。赦しているから、別のグラスを買ってくれよな、とぐらい言えるでしょう。しかし、弁償するまで認めない、弁償が済めば認める、というのは、赦しとは関係ありません。それはただ、弁済(べんさい・債務を消滅すること)を認めてやるというだけのことです。弁済はギブアンドテイクですから商売の論理です。「赦し」とは全然違います。
犠牲を求める赦しは商売です。本当の「赦し」は商売じゃありませんから、犠牲は不要です。
【恵みも報酬じゃありません】
聖書の中にある「恵み」という言葉もそうです。「恵み」は代価なしに、与えられることです。仕事した分をもらうことは「恵み」じゃなくて「報酬」です。これだけしたから恵んでください、というのは、「恵み」じゃなくて「報酬」を求めていることです。これは神様と商売していることです。
クリスマスにプレゼントしたから、バレンタインデーには、何かお返ししてよね、なんていう駆け引きのような言葉を耳にすると、恋人同士でギブアンドテイクするなよ、とぼくは感じます。
命だけでなく全てのものを神様が与えてくださったのだと信じている人が、全てを下さった神様に何を返せると思っているんでしょうか。福音主義者は謙虚を装っていますが、実は傲慢(ごうまん)だと思います。
聖書が示している大切な言葉は、すべて、ギブアンドテイクじゃありません。赦し、恵み、救い、愛、これらぜんぶの言葉に共通しているのは代価を必要としない、ということです。
ぼくらの現実の中にも、どうしようもない出来事が起こります。そんな時、先ほど出した例のように、代価を求めずに赦すことなんかいっぱいあるじゃないですか。なのに、代価を求める神様がいると教えるなんて、異様です。このように考えただけでも、被った損害に見合う犠牲を要求する神様なんかいるはずないことは明らかです。
忠誠心や代価を要求するような品位のないケチ臭い神様はいません。品位ある人間以下の神様なんて、品位のない人間が作り出した虚像(偶像)です。
交換条件がないということは、犠牲を捧げなくても赦されますし、働けなくても恵みはありますし、頑張れなくても救われますし、何もできなくても愛されています。つまり、怠け者が、そのままでいいということです。
【イエスは罪を認めない】
土地の人全員が疑うことなく罪人だと決めつけていた女に対して、イエスは「赦し」を宣言していません。「赦し」じゃなくて、「あなたを罪に定めない」と言いました。「赦し」ということを突き抜けて「赦される必要もない状態」つまり「無罪放免」を宣言したんです。宗教にも一般常識にも反する行為ですが、解決方法は、本当にこれしかありません。
イエスの視点も論点もそれほど深められていた、ということです。赦しに条件は不必要だということさえも突き抜けて、赦されなければならない罪などない、という境地(きょうち・独自の心境を反映した世界)にまで、イエスは到達していました。それがイエスの福音の深部です。
【ぼくたちは】
神に対する罪も、罪を赦されるために必要な犠牲も、商人のような宗教者が考え出した論理です。事実じゃありません。ですから、罪さえ認めなかったイエスが、自ら進んで罪人の代わりに犠牲になることなどあり得ません。贖罪論は破綻しています。
イエスを犠牲の供物だと教えているギブアンドテイクの神学を、キリスト教は捨てるべきです。これが、キリスト教会がイエスの福音に近づく方法です。ぼくたちはイエスの福音を大切にしましょう。