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「イエスは接触感染した」20200726
「イエスは接触感染した」20200726
聖書 マルコ 一章四十節〜四十二節
さて、今日の福音書が伝えているイエスのお人柄が判る物語、こういうストーリーを「お人語り」とぼくは言います。ここには、重い皮膚病を患(わずら)っている人が登場します。重い皮膚病というのは、アトピー性皮膚炎じゃなくて、昔は「ライ病」と呼ばれた伝染病のことです。当時は不治の病として恐れられていたものですから、感染を恐れて、誰もが近くに寄らないというものでした。
現在、みんなが恐れる伝染病といえば新型コロナウイルス感染症です。これに感染していることが判れば、隔離されて、日常の生活から遠ざけられます。同様にライ病患者も隔離されておりました。
社会を混乱させるために「私はコロナだ」と吹聴(ふいちょう・言いふらす)して逮捕された人がおります。けれども、そんなことじゃなくて、ライ病患者は、他の人が近づかないように、自己申告しなければなりませんでした。「『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と、呼ばわらねばならない。この症状が出ているかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ十三章四十五節、四十六節)と書かれています。
周りの人々に注意喚起するためであります。けれども、自分自身を「汚れた者です」と言わせる律法が病人を差別していることは否めません。
「私は伝染病患者です」と自己申告させるだけならまだしも、「汚れた者です」と言わせるんですから、病人は宗教的に「汚れた者」だ、価値観を植え込んでいることは明白です。
何かしらの感染した理由はあるでしょうが、この病にかからなければならなった理由はないはずです。そうであるにもかかわらず、こんな病にかかったのは、よほど「罪深い」からだ、と病人に厳しい評価を下しています。これこそ病人を最も苦しめたことでしょう。
【清めてほしい】
このような病の人がイエスの前に姿を現します。イエスに病を治してもらえる、という絶大な信頼があったとは思えません。淡い期待を持っていただけだと思います。とは言え、彼にとって唯一の希望であったろうと思います。
彼はイエスの前に膝まづいて「あなたが望んでくだされば、あなたは私を清めることができます」ってなことを申告しました。
病人ですから「病気を癒してください」と言いそうなもんです。しかし、「あなたなら私を清くすることができます」だなんて、変な言い回しをしたもんだと感じました。
彼の病気が治ったという後の展開を知っている読者の多くは、「清くされること」イコール「病を治してもらうこと」だと思ったことでしょう。結果的に病人は癒されたんだから、表現の細かな違いなんか、気にしないでおこう、と思ったかもしれません。
しかし、病人は、「病気を治してほしい」と言ったんじゃなくて、「清めてほしい」という意味の言葉を言った、とマルコは、わざわざ書き残しているんです。そうであるならば、マルコはこの表現に重大な意味を込めている、と考えるべきだと思います。
「清められたい」という望みを、イエスなら叶えてくれるかもしれない、と期待して、彼はイエスの下に出てきたんです。期待できることは他になかったし、他に希望を託せる人がいなかったからでしょう。淡い期待と言えども、彼にとって、唯一の希望であったんですから、大きい期待でもあった、ということは、後の彼の行動を分析すれば判ります。
【律法を無視して】
この人は、隔離されていたはずです。出歩く時には「私は汚れています」と自己宣告しながら歩かなきゃならなかったんです。そうであるにもかかわらず、ソーシャルディスタンスを無視して、イエスの下に来たんです。この時を決して逃したくない、という一心で決断したと想像できます。
彼が律法を守っていたなら、決してイエスに近づくことはできませんでした。だから、彼は律法違反したんです。人混みの中に入ったことが判れば、石打にされるでしょう。しかし、そうしなければイエスには近寄れません。殺されることを覚悟したのは、それしか希望の芽がなかったからでしょう。
この人は自分の気持ちを素直にイエスに打ち明けました。「わたしが清くされるようあなたが望んでください」という程度の意味です。
彼のこの言葉の背景には重い現実があったんです。伝染病にかかっていることで、彼は「汚れた者」だと評価され続けてきたために、自分でも「清くない」=「汚(けが)れている」と思い込んでいた現実です。当時はこの病に効く薬はありませんでした。不治(ふじ)の病だとだれもが思い込んでいるんですから、治そうとしてくれる者さえいません。誰もが患者を避けるだけでした。そして患者は諦(あきら)めるしかなかったんです。
なぜこんな病気になったのかという理由もわからず、他人からは嫌われ避けられて、自分でも汚れているとしか思えなかった、ということは、表面的な問題はライ病ですけれども、彼を本当に苦しめていたのは、そんな病気にかかったのは「汚れている」からだという評価です。そうだとすれば、彼が「病気を治してほしい」と言わずに「清めてもらいたい」と願い出た意味が納得できるでしょう。
【イエスは感染者になった】
願いを告げられたイエスは、誰もが手を引くはずの伝染病患者に、手を差し伸べて触った、と書かれています。異様な光景です。
伝染病患者と接触した人は、伝染病患者と同じ扱いを受けます。新型コロナウイルスに感染して発病している患者に接触した人は、患者と同様に隔離されるのと同じです。隔離されたまま、発病するかどうか観察されることになります。伝染してないことが充分に証明されるまで、一般社会から隔離されることになります。二千年前も今も同じです。しかも当時は血液検査もできない時代ですから、相当の期間、感染を疑われ続けることになるでしょう。
イエスがしたことは、病気を広める可能性のあることでしたから、社会の常識では、許されない行為であったことは確かです。そんなことを承知の上で、イエスは、あえて手を伸ばして伝染病患者に触ったに違いありません。そうだとすれば、イエスは自分から進んで伝染病患者と同じ差別を受ける者となり、その人の側に立ち、病人の仲間になったことは明らかです。
【イエスは感染者を受け入れた】
こんなことはふつうの神経じゃできません。これ自体が奇跡です。これが、人はそのままで受け入れられているという福音を表現するイエスの生き方だったんだと思います。
もちろん、みんなが伝染病にかかればいいという意味じゃありません。福音書の著者マルコは、実際の感染の有無には関心を持っていません。
今日の「お人語り」を通してマルコが言いたかったことは、イエスは、伝染病患者の仲間になって、差別される者の側(立場)に立ったということです。非常にシビア(過酷)な状況の中で、非常にラジカルな(はげしい)表現で、イエスはご自分の福音を伝えた、ということをマルコは書き残したかったんでしょう。
イエスは、人を隔離する壁の反対側に立ったままで、声をかけただけじゃなくて、隔離の壁を乗り越えて、隔離された者がいる側に入って行ったということです。イエスの行為は、実に馬鹿げています。隔離された病人の常識をも覆(くつがえ)すほどのものでした。しかし、社会から分離され、隔離され、差別され、孤立させられていた人々、すなわち、自分が慰められることなどあり得ないと考えていた病人にとって、思いもよらない慰めになったんじゃないかと思います。
【政府発表にこんなに従順でいいのか】
今回の新型コロナウイルス事件で、不要不急の外出を避け、集会を自粛(じしゅく)するようにとの要請を受けて、多くの教会が礼拝を休止しました。ぼくたちも礼拝を一度だけ休みました。その後数ヶ月間休んだ教会もあります。このように教会が一斉にとった行動が腑に落ちませんでした。どこかおかしいと感じ続けています。
感染の可能性をできるだけ少なくするという目的であったことは理解できます。けれども、当時から様々な意見があったにもかかわらず、あまりにも多くの教会が、政府の要請のままに集会を休んだことに、正直なところびっくりしました。
政府の言うことに対して、しょっちゅう反対声明を出している連盟が、コロナ事件に関しては、反対声明を出すどころか、従順であることに驚きました。
かつて、多くの教会が社会の流れに逆えず、戦争に巻き込まれてしまったことについて、日本バプテスト連盟は反省文まで書いたはずです。ところが、今回のコロナ事件では、政府やマスコミの情報に、簡単に流されていたと感じます。同じようなロジック(論理)に掛かれば、他のことでも、また簡単に流される体質を持っているように思います。
感染者にさえ手を伸ばして触って、ライ病を治してあげたイエス様は素晴らしい、と教会は喜んでいるだけでいいんでしょうか。神の子だからライ病を治してあげられるんだし、感染する心配もないよね、とでも解釈しているとすれば、イエスが自ら手を差し伸べて病人に触った意味の重さを理解していないと思います。イエスは、自分が感染者扱いされることを覚悟して、ライ病人と同じ立場になるために、病人に触ったんだと、ぼくは感じています。マルコも同じ思いで、この出来事を書き残したに違いない、と思っています。
【ぼくたちは】
政府の発表や、NHKを初めマスメディアの情報によって、新型コロナウイルスに感染することを恐れている間に、マスクを着けることが社会の常識になりました。どれほど効果があるのか判りません。全員がマスクを着ける必要があるとも思えません。公的機関から流れて来る情報は、腑に落ちないことが多すぎます。
マスクを着けている全員が隣人を感染者扱いしているようです。マスクと消毒という対策を自分のためにするのはいいでしょう。しかし、新しい社会の常識を守らないということを理由にして、隣人を差別することは行き過ぎです。
イエスはライ病人には触ったけれども、新型コロナウイルス感染者には触らない、などとは言えないでしょう。単純に言えることじゃありませんが、現代に置き換えれば、防護服も着けずに、新型コロナウイルス感染者に触るのと同じほど過激な行為をイエスはなさった、ということです。
平和な中でキリスト教を語るのは簡単ですけれども、現実の中で、事なかれ主義で福音は語れない、と思います。
差別を助長する社会と共に、感染予防の旗を振っている教会の指導者たちは信用なりません。ライ病人に手を差し伸べたイエスは、教会とは異なる行為をなさるように思います。それをみんなで考えてみたいと思います。