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「いいフリする必要なし」20230709
「いいフリする必要なし」20230709
聖書 ルカ福音書 十五章十一節〜三十二節
先週は「放蕩息子の譬え話」として有名な物語を通して、「赦しは必要ない」という説教をしました。伝えたかった大切な部分がうまく伝わらなかったようなので、同じ箇所から話すことにします。
イエスは「神の愛と罪の赦し」を伝えたと言われておりますけれども、そうではありません。愛する人の関係に罪なんか存在しません。罪を認めない関係には赦しも必要ありません。罪も赦しも無いのです。作られた概念だと考えればいいでしょう。そうだとすれば、罪を悔い改めて赦しを求める必要もないのです。これが人間関係の基礎です。この基礎があるから無力な赤ちゃんでも育つことができるのです。
イエスが育った時代にも、神と人間の関係が教えられていました。しかし、教えられた神と人間の関係によって人が束縛(そくばく)されていることに気付いたイエスは、過去の教えを根本的に考え直したのでしょう。そして自分なりに得た答えを、当時の人々に伝えたのだと思います。これがイエスの福音宣教です。古くからあった神と人間の関係を教える宗教社会に対して、全く異なる福音をイエスは伝えたのです。後にできたキリスト教の福音宣教とも異なります。
イエスが伝えた福音は、古代からの宗教概念によって縛られていた人を解き放ち、人は自分の生活を楽しめる人間社会を作ることができるという内容でした。
【親子の譬え話】
今日の譬え話は、父は無分別に次男を溺愛(できあい)していたという物語ではありません。また、放蕩息子が帰って来た時に喜んで迎え入れた父のように、神はあなたが罪を悔い改めて神のもとに帰って来るのを待っておられる、ということを教える物語でもありません。
赤ちゃんは、そのままで愛され育てられます。「罪の告白や赦し」は必要ありません。人が必要としているのは、このような人間関係なのだと教えるために作られた譬え話だと思います
譬え話は、イエスが創作した話です。事実を伝えるレポートのように読んではなりません。
さて、「あるところに、父親と二人の息子がおったげな・・・。」と、昔話のように話し始めたほうが作り話であることが実感できるでしょう。
「長男は勤勉な働き者じゃったが、弟は遊び好きで、父の財産を半分も使い切ってから、ボロボロになって家に戻ってきよったのじゃ。」
次男は、裕福な実家の雇人にしてもらうつもりで帰って来たと書かれているように、実家に帰ればなんとかなるだろうと考えた程度の浅はかな人物に描かれているのです。
父の財産の半分をもらい、すってんてんになって帰って来た次男を、何のお咎(とが・責めや非難)めもなく、受け入れた父は、あり得ないほどの大馬鹿者のような人物として描かれているようです。
先週のぼくの説教を見てくださった方が「この物語で一番反省しなくてはならないのは父親だ」と応答してくださいました。しょせん譬え話ですけれども、話の中の父がどうしようもないキャラクターの持ち主だと感じた人も多いでしょう。しかし、この譬え話は、誰が良いとか悪いとかを考えさせるための話じゃありません。
【次男の先入観】
「わたしは天に対してもお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と父に告白した次男は、世間の一般的な評価を口走っただけの男です。そんなキャラクターなのです。だから、父は次男の言葉に取り合わないで、晴れ着を着せます。
演出の下手なドラマを見ているようです。ぼくならば、まず使用人に命じて次男をゴシゴシ洗わせて、綺麗にしてから晴れ着を着せます。それからハグしようかなって思います。
どこまで本心か判らないですから、こんな次男から罪の告白なんか聞いてもしょうがないんです。細かい描写に引っかかっていたら、話の本筋が見えなくなるので、気にする必要ないんです。汚い次男をそのままハグしたということで、父は次男を、そのまま受け止めたことが伝わればいいだけです。罪の告白や悔い改めなんか関係ないんです。
どんな状態でも息子は息子だというだけのことです。次男は罪人になったなどと考えていないのがこの譬え話の父の役柄です。そうだとすれば父は次男を赦すことなど考えません。聞き手が求めているような罪の悔い改めも赦しも必要ないのが、この譬え話なんです。
【長男の先入観】
ここまで話を聞いて来た皆さんにはまだまだ、疑問が残っているでしょう。そんなことでは長男が可哀想じゃないか。長男が拗(す)ねて怒るのも当然じゃないかと感じるでしょう。
長男の役柄は、生真面目な人です。父の命令に絶対服従してよく働き、無駄遣いもしないという役柄なのです。
しかし、次男が帰って来た時の父の態度には猛反発します。はじめて父に言い逆らったように描かれています。昔から父に大切にしてもらっていなかったと感じていたように描かれています。一度も口答えしなかったのに友達とパーティーする時に子山羊一頭くれたこともない。なんで弟だけを大切にするんや、と初めて文句言ったようです。
ここで父は、俺のもんは皆お前のもんや(もちろんお前のもんは皆俺のもんでもあるけどな)遠慮せんと好きにしたらええのやがな、と言うのです。父の目を気にしなくていいと言うんです。絶対服従しなくても父は長男を大切に思っているのです。可愛がってもらうためには父に服従しなければならないと長男は勝手に思い込んでいただけなのです。長男は、父の反応ばかり気にして、自分らしい生き方をしてこなかったのです。しかし、父はそんな生き方を長男に望んでいた訳ではないのです。
【ぼくたちは】
拗ねていないで、家に入って一緒に宴会の席に着いてくれよ、と頼む父に、こんな親父にはもう着いていけんとばかりに、長男は初めて父に逆らったんでしょう。家に入ってこない長男は家出しているんです。今度は長男が腹を減らして帰って来るまで父は気長に待つのでありましょう。知らんけど。どんな状態でも、父に愛されている(そのまま受け入れられている)のです。息子たちと父との関係は変わらないのがこの譬え話です。
罪を悔い改めた振りをする必要も、誠実に生きている振りをする必要もないのです。そのままで受け入れられているというのが人間関係の土台だからです。これを認めるだけで人生が楽になるんじゃないのかい。ということです。
「努力いかんに関わらずそのままで大切だと思ってもらっている」という人間の最も基礎にある関係をイエスは教えたのです。今みんなが生きていることこそが、イエスの教えこそが本当だという証拠です。
宗教の教えを捨てて、基本的な人間関係を思い出して、そこに戻ればいいんだよと教えてくださったのがイエスです。イエスの教えは簡単です。当たり前に考えてごらんなさい、というのがイエスの福音宣教だったんです。