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「マリアがイエスの復活を理解した」20210314
「マリアがイエスの復活を理解した」20210314
聖書 Ⅰコリント 十五章三節~八節
奇想天外な発想ばかり聞かされてきた西野バプテスト教会の皆様はもう慣れてきて、驚くことも少なくなっておられるでしょう。けれども、他の教会の信者がぼくの説教を聞いたら、これは教会の説教じゃないと思うでしょう。まあ、オーソドックス(一般的に正統的と認められている)な説教じゃない、とぼく自身も認めます。けれども、イエスの生き様を大切にしているのですから、極めて福音的である、と自負しております。今日も福音的説教を始めます。
【対立(たいする)する福音】
教会は今まで福音を信じさせなきゃならない、と思ってきたようです。しかし、その考えは、イエスのなさったことと、まるで異なっている、と先週申しました。
イエスは、なんの変化も要求しないままで相手を受け入れなさいました。
何もしなくても、そのままで愛されているよ、と教えてもらった人は、イエスの言葉をそのまま受け入れればよかっただけです。変化しなくても、そのままで受け入れられたから救われたんです。それが救われる、ということです。
素直に考えれば判ります。努力しなければならないんだったら、そんなもの、救いじゃありません。たとえば、溺れかけている人に、教えられた通りに努力して泳いでみなさい、てなこと言っていたら、ぜんぜん救いになりません。
ですから、教会の信条を信じ込むように押し付けてきた教会と、相手をそのままで受け入れたイエスは、方向性が全く逆です。なぜこんなふうになってしまったのか、不思議です。断絶はどこから始まったんでしょうか。
【異なる二つの立場】
一つの物を二人で見れば、異なった見え方になるように、一つのことでも、見る者の立場は二つ以上にならざるを得ません。
創造神話には男と女という立場の異なった人間が登場します。二人はまったく違う存在ですから、それぞれの見解を持っています。そんな物語になったのは、男と女の違いを、嫌と言うほど経験した人が創世記を書いたからでしょう。著者の背景が映し出されているんだと思います。
初めに男が造られて、その一部の肋骨(あばらぼね)から女は造られたんだ、と嘯(うそぶ)いて、女は男に従うべきだと言いたかったんでしょうが、現実の力関係は逆で、当時の現実も、男は女に弱かったに違いありません。
アブラハムは妻サラの言葉に従って、側女(そばめ)に子供を産ませたのに、サラに子供ができたとたんに、側女とその子を追い出すようにと迫ったサラの言葉に従って、渋々(しぶしぶ)側女と息子を追い出しました。ダビデ王も、寝取ったはずのバトシェバに、手玉にとられていますし、ソロモンも外国の女たちに魅せられたために国を潰す羽目になりました。
アダムも「食べてみなさい。美味しいですよ」というエバの言葉に誘われて、禁断の木の実を食べたんだそうですから、男は力を鼓舞しますけれども、そんな男を実際に操(あやつ)っているのは女である、と聖書の物語は言っているように感じます。
いやいや、これはぼくの主張じゃありませんからね。聖書の物語がそんなふうに書いているんじゃないかなあというだけですから、誤解なさいませんようにおねがいいたします。
女は裏に回って男よりも悪どいことをするなんてぼくは決して思っていませんからね。
でも、聖書にはけっこう女性蔑視の物語があります。最近では、森喜朗元首相が女性蔑視だなんて叩かれましたけれども、それどころじゃありませんから、聖書も叩かれるでしょうね。あんなもの読むんじゃないなんてね、いつ焚書(ふんしょ・異端の書として焼き払われる)になるかわかりません。いずれにせよ、ぼくは女性蔑視なんてしていませんから、くれぐれもお間違えなさいませんように、お願い申し上げます。
【復活祭です】
さて、四週間後は復活祭です。イースターなんて言う教会が多いですけれども、ぼくはどうも嫌なんです。まずは意味の判らない言葉が嫌いなんです。なんでイースターやねん、と思いませんか。イースターはイエス・キリストが復活なさったことを祝うお祭りだということです。それなら「復活祭」でええやないか、と思うんです。
西方教会では、春分の日の後の最初の満月を過ぎた次の日曜日にイースターを祝うことになっているようです。今年は三月二十日が春分の日で二十八日が満月です。だから四月四日ということになるんです。春の兆(きざ)しを強くかんじることができる、春分の日が関係していることから判りますように、農耕に関係する祭りだったんでしょう。冬の間、弱っていた太陽が元気になって東(イースト)から登ってくることに関係あるんでしょう。ゲルマンの春の女神(Eostor)とも関係あるようですから、異教の春の祭りをキリスト教化したということでしょう。
このように、「太陽神の春の祭り」を深く連想するイースターという呼び名を使いたくないので、ぼくは復活祭と言っております。
【復活の証人】
とにかく、今年も、四月四日の復活祭に向けて、説教を組み立てていくつもりです。
さて今日は、先週とほぼ同じ聖書の箇所を読んでいただきました。なぜならば、とても大切な情報が抜け落ちているからです。
ここには、教会の福音(教義)の中心として「キリストが三日目に復活したこと」が語られています。「イエス」じゃなくて「キリスト」と書かれていることから、この部分が、教会組織がまとめた信条であることは確かです。
これに続いて、三日目に復活したキリストを誰が見たか、名前を揚げて強調しています。
ぼく自身、ここを読んでも、昔はまったく何も気になりませんでした。しかし、マルコ福音書をよく読むようになって違和感を覚えるようになりました。なぜならば、マルコの復活物語に登場しない人名ばかりが列挙されているからです。もっとも、マルコ福音書によれば、復活したイエスを見た人はいないわけですから当然です。
それじゃ、マルコ以外の福音書はどうか、と言いますと、現われ方はさまざまですが、とにかく復活したイエスは姿を現します。そのすべてにおいて、教会が伝えている福音(教義)に登場する人々とは異なっております。
教義では「ケファ(ペトロのこと)に現れ、その後十二人に現れた・・・」と書かれています。ペトロとユダを除けば十人のはずですので、辻褄(つじつま)が合わないことはさておき、大切な人々が、全く抜け落ちています。
四つの全福音書に共通しているのは、天使のような者のお告げを受けて、イエスが復活したことに気付かされたのは、マリアをはじめとする女たちです。しかもマタイ福音書とヨハネ福音書では、復活のイエスに最初に会ったのはマリアです。ケファ(ペトロ)じゃないんです。
【教会は女を出さなかった】
福音書によれば、イエスの復活に気付いたのは女だけです。しかし、福音書より早くにまとめられた教会の教義は、女たちを、登場させませんでした。女たちを隠して、男たちを登場させているんです。なぜだと思いますか。
たぶん、当時の社会状況に合わせて、復活の証人は男たちでなければ相手にされない、と教会が判断したからでしょう。だから、イエスの最初の弟子であって、教会でも名の通ったペトロに始まって、十二使徒たち、それから五百人以上もの兄弟たちという大袈裟な表現を続けた後に、イエスの弟ヤコブの名までも揚げたんでしょう。このヤコブはユダヤ人の中でも名が通っていたようですし、その頃には、エルサレム教会の中心人物になっていたからでしょう。
教会が、周りの社会に対して、キリストの復活の証人に仕立て上げたのは、このような男たちでした。組織ができた頃の教会が、女の証言など受け入れられない当時の社会に認められるように訴えたかったという気持ちは察しがつきます。けれども、当時の社会状況に迎合(げいごう)するために、情報を改竄(かいざん)したことは確かなようです。こうして、マリアという女の証言は無視されました。現代の女性はこんなこと許せないと思います。
【現実を受け入れたのは女だけ】
教会の信条の方が正しい、という可能性についても言及しておきましょう。教会の信条は、証言記録や教会教義の文書という性質上、男しか証人に選ばなかったんでしょう。けれども、マルコ福音書は物語ですから、この事件を、ありのままに物語形式で伝えようとしたはずです。たとえそうだとしても、実際に女が登場しなかったのであれば、社会で認められていない女をわざわざ登場させるはすありません。わざわざ女を登場させたのは、疑う余地なく、実際にまず女がイエスの復活を理解したからでしょう。
十字架にかけられて殺されたイエスが、墓に納められるまでを、しっかり見届けたのは女たちだけでした。だから、日曜日の夜明けに、イエスが葬られた墓に行くことができたのも女たちだけでした。弟子たちに判るはずありませんでした。特に、イエスの弟ヤコブなどは、まったく登場する余地などないはずです。そうであるにもかかわらず、教会の福音である教義にはヤコブまでが登場しているんです。その代わりに、女たちがすっぽり抜け落ちているんです。ここから、教会の教義が、はっきりした意図をもってまとめられたものであることが判ります。
これは、はっきり言って、今も問題になっている偏向報道です。社会の差別に過敏に反応している現代教会の女性たちが、聖書の中の差別に気付いていないとすれば問題(解決しなければならない課題)です。
組織を発展させるために、教会組織の柱である人々を復活の証人にする必要があったとしても、女たちしかイエスの復活を理解できなかったのが事実だとすれば、それを公表すべきだったと思います。公表していれば、キリスト教国に女性差別が今ほど蔓延しなかったでしょう。
【ぼくたちは】
イエスを殺したのは、社会の権力を握っていた男たちでした。そして、弟子だった男たちは、イエスの復活を理解できませんでした。昔も今も権力を求めるものはイエスの復活を理解できません。しかし、疎外(そがい・除け者にする)されていた女たちはイエスが復活したという情報を受け取りました。イエスが殺された事実を受け止めていたからです。
復活を理解した女たちは権力を手にしませんでしたが、生きる活力を得たでしょう。社会から疎外されている人がイエスの復活を理解したんですから、まるで疎外されているようなぼくたちも、まんざら捨てたもんじゃありません。マリアのように、イエスの復活を理解できるという希望を持つことができるんです。来週もイエスの復活に迫(せま)って行きましょう。