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「法は民を守るもの」20210912
「法は民を守るもの」20210912
聖書 ルカ福音書 十三章十節~十七節
今日もルカのスクープ、つまりルカ福音書だけに残されている記事をとりあげます。今日の物語の段落には「安息日(あんそくび)に腰の曲がった婦人をいやす」と言う小見出しが付けられております。
イエスはさまざまな病気の人をお癒(いや)しになったことが記録されております。その癒しの行いに言いがかりをつけてイエスを非難する人はおりません。なぜならば、元気になりたいという気持ちは誰にもあるからです。もしも、誰かを元気にしたイエスを非難などすると、元気にしてもらった人が黙っちゃいません。ですから癒しの行いそのものが批判されるわけありません。女を癒したのが「安息日であった」ことが問題視されたのです。この日も安息日の決まりを破ったということでイエスは律法の専門家たちから責められたのです。
【安息日とは】
今日の物語を理解するためには、そもそも「安息日」とは何かということを知っておかなくちゃなりませんので説明しておきます。
ユダヤには、必ず守らなければならない律法の根本にモーセの十戒と呼ばれる掟(おきて)があります。その中の一つに「安息日を聖とせよ」というのがあります。「聖」に対立する概念に「俗(ぞく)」がありますように、「聖とする」とは普段の生活と切り離すことだと考えてください。簡単に言えば、共同体全体で一週間の内の一日を安息日と定めて、その日を普段の日と切り離した特別な日にしなさいということです。
ちなみに、ユダヤの安息日は、いわゆるぼくたちの金曜日の日没から土曜日の日没までを指します。多くの人が勘違いしていますけれども、日曜日じゃありません。
「安息日を聖別せよ」は短くて覚えやすい文章ですけれども、こう言われても具体的にどうすればよいか判らなかったんでしょう。十戒の言葉を忠実に守らなければならないと考えるからこそ、言葉の意味を具体的に知りたくなる気持ちは判ります。しかしこれが落とし穴になって民が律法を手放すことになります。すなわち、律法を注釈するために律法の専門家たちが現れます。彼らが「安息日を聖別する」という言葉を、「安息日には普段の仕事をしちゃならない」ということだと解釈したのでしょう。
ところで、このような解釈を伝えられたのはほんの一部の、いわゆる特権階級の人々だけだったように思います。一般庶民に律法解釈を勉強する余裕などなかったはずです。
六日間は働いて、七日目には何の仕事もしちゃならないという命令だけでは、十戒の意図が彼らには十分に伝わらなかったんだと思います。つまり、この命令を伝えられた特権階級の家長さんたちは、自分だけが安息日に仕事をしなければいいんだと受け取ったんでしょう。
次の安息日に、律法の専門家たちが街に出てみると、今までと変わらない光景を見たんだと思います。みんな働いていて、社会はいつもと同じように回っていたんじゃないでしょうか。
すなわち、雇い人や奴隷たちを働かせたままで、女たちには食事の用意をさせ、直接に命令を聴いた家の主人たちだけが休んで、酒でも酌み交わしていたのかもしれません。
そこで律法の専門家たちは十戒の命令をさらに細かく解説して伝えなくてはならなくなったのだと思います。「いやいや、みなさん、違いますよ」「あなただけが休むんじゃなくて、あなたの息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、寄留者(一時的に身をよせている人)もみな同じですよ」という言葉を付け加えなければならなくなったのでしょう。
地域や家庭の代表者だけに伝えても、彼らは自分に都合のよいことだけに耳を傾けて、末端で苦しんでいる人のことなどは何も考えていなかったというのが実状だったんでしょう。
本当は、雇い主は休みなさいという意味じゃなくて、従業員や奴隷や家畜や寄留者を休ませなさいという命令なのです。
【なかなか浸透しない安息日】
このように、末端を休ませるための法律だということが判りましても、実際には末端の労働が軽減されない実態が残ったんではないでしょうか。たとえば、安息日には仕事をしちゃならないということになりますと、金曜日の日が暮れるまでに、安息日の食事まで準備させられた人が出てきたはずです。食事を温めるぐらいはいいだろう、と考える人もいたので、安息日には火を使ってはならないという注釈まで必要になったのです。ここまでしなければ、末端の人をこき使おうとするのが人間だということです。
【イエスは安息日規定違反者ではない】
さて今日読んでもらった物語によりますと、癒(いや)しは安息日にしてはならない行為だと考えられていたことが判ります。ところが、イエスは律法の専門家たちから、律法違反者だと責められることを覚悟の上で、安息日であるにもかかわらず、婦人の曲がった腰をまっすぐに癒してあげたのです。
わざわさ安息日を選んで癒したのかもしれませんが、たとえ安息日でなくても、イエスは出会った婦人を癒したと思います。
イエスにとっては、安息日かどうかは問題じゃなくて、この婦人がすぐに癒される必要があるということでした。イエスにとっては一般的な社会の掟よりも、目の前の女が大切だったということです。
安息日規定に違反しないために、癒しをおこなうのは、明日にすればいいじゃないか、というのが一般的な考えかたです。専門家たちは律法の言葉を大切にするがあまり、安息日規定が末端を助けるために作られた規定であることを忘れていたんでしょう。専門家として言葉そのものを大切にしているのは判りますが、律法の主体である人を大切にしていません。これに対して、イエスは目の前の人を大切にしました。この婦人の苦しみを一日も早く取り除いてあげたい、と考えたのがイエスです。たとえ律法学者たちとの諍いを避けるためであっても、この女を楽にしてあげることを、一日伸ばすことなんてできない、というのがイエスです。
律法(法律)の文字を守ることが必要か、人を守ることが必要か、と問われれば、もちろん人を大切にしなきゃならない、とイエスは答えたでしょう。律法の根本である十戒は元来は庶民が生活しやすいように、庶民を保護するために作られた法律だからです。
法律が庶民の生活から離れて運用されるようになりますと、庶民の生活を圧迫するものになります。庶民を圧迫するために法律を利用することは許されることではないのですが、庶民を縛るために律法があるかのように勘違いする専門家が多いのです。これに対してイエスは、律法の文字よりも、人を大切にする生き方を実践なさったんです。
【ぼくたちは】
日本の首相が代わろうとしています。法律の存在意義は国民を守ることです。国民を守るために法律を作り、国民を圧迫しない法律の運用ができる人が選ばれることを願いましょう。そういう人材が現れることを願いつつ、これからの選挙にも臨みましょう。そのためには国民の一人一人が賢くならなければならないのです。