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「LG B T法も差別」20230604
「LGBT法も差別」20230604
聖書 ヨハネ福音書 四章一節〜十五節
聖書楽講座には「私は天国に行けるかな?」と問いかける人が出席しています。皆が口々に「無い無い。天国なんかないから行けない」と言います。「もしも天国や地獄があったとすれば、地獄行きに決まってるよ」と追い討ちをかけます。そんなこと言われても足を運んでくるのは、立場を気にせずに、本当に感じている事を、そのまま口に出せる教会だからです。
さて先週は、神や聖霊はぼくたちの実世界に介入することができない、とお伝えしました。キリスト教は、神や聖霊が、現実社会に介入する(割り込む)ことができると教えて来ました。しかし、ぼくたちの現実を見て判るように、実態が無い神や聖霊はこの世界に介入できません。
しかし、イエスは実態を持った人間でした。関係の中で生活していたので、他者の生活に介入することができたのです。人は親から生まれます。すなわち人間関係の中で生まれ育てられます。人間関係なしに生まれません。生まれてすぐに社会の一員、つまり人間として他人に影響を与えたり与えられたりしながら生活しているのです。
【スカルの町で】
今日はヨハネ福音書を通してイエスが他人に関わって影響をあたえた物語を見ましょう。
著者ヨハネは、まるで劇作家のように、物語の情景を描き出すのが上手です。今日の物語も、劇や映画の台本にそのまま使えそうです。
イエス一行はユダヤからガリラヤに移動中にサマリアのスカルという町に立ち寄ったのです。かつて、南ユダのエルサレムに対抗して燔祭が捧げられたゲリジム山に近い町でしたので、ユダヤ人たちは立ち寄りたくなかったようです。しかし、イエス一行は急いでいたために旅の支度が整っていなかったのでしょう。しかたなくこの町に立ち寄ったように見受けられます。
弟子たちは買い出しに出かけ、イエスだけが井戸端で休んでいますと。正午頃に、一人の女が空の水瓶(みずがめ)を持って登場します。読者の目は一人の女に引き寄せられます。
イエスは不意に女に語りかけます。「水を飲ませてもらいたい。」
女は驚きました。ユダヤ人から話しかけられるなどと思っていなかったからです。「ユダヤ人のあんたが、サマリアの女に、水を飲ませてほしいと頼むのかい」「おかしなことを言う人だね」と言わんばかりに非難めいた言葉を女はイエスに返しました。
ヨハネ福音書のイエスは、急に威張った様子で言い返します。「頼んだのが誰であるかを知っていたなら、君の方から命の水を飲ませてください、と頼んだことだろうよ。」
「水汲みの道具も持っていないあんたがなにいってるのさ」とイエスを馬鹿にした女に対して「わたしが与える水を飲んだ人は渇かないどころか、その人の内に泉となって永遠の命に至る水が湧き溢れるんだよ」と答えました。「そんな水があるのなら下さいよ」と女は言ったのだそうです。この問答には、後の教会で話された説教が、時を遡って書き込まれたように感じます。とにかく命の水についての会話は、禅問答のようにややこしいので飛ばします。
【弟子たちの反応】
イエスと女が話している場面に、買い物を終えた弟子たちが登場します。弟子たちはイエスがいかがわしいサマリアの女と話し合っているのを怪訝(けげん・不思議に思う)な表情で見つめました。なぜそんな女と話し合っているのかと弟子たちがイエスに問いかけたのを機に、女は水瓶のことも忘れて、イエスとの出会いを伝えるために町に行ってしまいます。
イエスと女の会話の展開についての真偽は判りかねます。ただ、イエスが語りかけたことによって女の状態が一変したことは確かです。
【女は人間扱いされていなかった】
この物語において、はっきり判ることは、この女が他の女たちとの交流を避けていたということです。多くの女たちが水汲みをする早朝ではなくて正午ごろに来たことから判ります。
後に続く記事に、過去に数人の男と暮らしていたとあるように、女が社会的差別を受けていたことは明白です。ユダヤ人はサマリア人を差別していました。その中でも卑劣(ひれつ)だとされていた女だったのです。このような差別意識を弟子たちも持っていました。だからそんな女とイエスが話し込んでいる状況に、弟子たちは怪訝な表情を見せたのです。
【イエスは女の生活に介入した】
人間イエスは他人の生活に介入することができると先週言いましたように、イエスはサマリアの女に話しかけたのですから、女の生活に介入したということです。
当時のイスラエル社会で疎(うと)まれていた女の生活に割り込んで、誰も公には関係しようとしない女とイエスは社会の評判などを無視して関係したのです。このようなイエスの生き様は、他の福音書にも見ることができるイエスの特徴を示しています。ですから、このような事件があったことを疑う余地はありません。
当時の社会において差別され見放された人は、宗教社会から切り離されていました。すなわち、神に対する罪人だと認定された人は、罰せられるべき人だという理由で、宗教社会が関わりを持たないことにしていたのです。
日本では学校でのイジメ問題が何十年も前から取り上げられて来ましたが、全くなくなりません。それどころか最近ではLGBTに対する差別が国会で取り上げられているほどに根深くなっていますが、制度で差別は無くせません。当たり前です。イエスの時代にも、旧約の時代にも、有史以前の古代から、差別はありました。社会組織を作る上で人を差別すること(差別化)は、重要な要素なのです。ですから、差別やイジメがなくなるわけがないのです。差別撤廃を叫んでいる政治家がいますけれども。彼らは、単に点数稼ぎをしているか、そうでなければ、社会構造の基本を理解していない人(いわゆる大阪で言うアホ)かのどちらかです。社会の仕組みを変えても差別は無くなりません。一つの差別を無くしたかと思うと逆差別になっているなどということがざらにあります。現在のアメリカでは白人が差別を受けているようなのです。
【ぼくたちは】
さてイエスは、民族という組織の違いを無視して、正午に水汲みに来たサマリアの女に、「水を飲ませてほしい」と言っただけです。イエスは、立場や民族を気にぜず、ただ人として助けを求めただけです。神や聖霊は水や食物を求めませんが「豪雨を止めてください」という祈りに答えることもできません。人間社会に介入できる神も聖霊も無いからです。一方、イエスは、一言の呼びかけで女との関係を作りました。ちょっとした働きかけで人間は関係を作り出せます。そこに組織や肩書きを持ち込んだりしてはダメです。差別が生まれて素朴な人間関係が持てなくなるからです。「水一杯飲ませてよ」「ハイよ」というたわいない関係作りが大切なのです。神や権力を持ち出して人々を組織化しようとしなければ差別は生まれません。差別を無くしたいならば、組織化しようと思わずに、人それぞれを認める関係作りをすればよいだけです。