説教の題名を押して下さい

「本当の権威は人から与えられる」20190901

F3B04111-4BD0-427B-98D7-4D13B3E39421.jpeg

「本当の権威は人から与えられる」2019年9月1日

聖書 マルコ 十一二十七節~三十三

 

 奴隷にされていた人々を導いて、エジプトから脱出させたモーセは、その命令を神から受けたからだ、と教えられてきましたけれども、そうじゃなくて、エジプトでこき使われていた奴隷の叫びに気付いたからである、と前に話しました。そして先週は、奴隷たちを自由にさせる思いを与えたのは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」じゃなくて、「アブラハム、イサク、ヤコブ」という先祖たちだと申しました。先祖たちを突き動かした精神が、先祖たちからモーセにも受け継がれていたので、モーセも先祖たちと同じように突き動かされるようにして奴隷たちを解放する行動に出たんだと思います。そして、モーセはエジプトで奴隷にされていた人々の実質的な解放者になったんです。このように、モーセはイスラエルにとってのメシア(救い主)になったと言えます。

 先週は、モーセの話を通して、旧約聖書には、既存の宗教の神に抵抗する姿勢があるということをお伝えしました。しかし、旧約聖書の話題だということで、初めから心を閉ざして、説教が全然わからなかった、という意見を聞きましたので、今日は、やはり、イエスがお伝えになった福音を理解していただけるように、福音書から説教させていただくことにしました。

 

神殿での商売をイエスは邪魔した

 今日読んでいただいたのは、イエスが十字架に磔(はりつけ)にされる一週間ほど前の、かなり緊迫した状況での出来事です。

 エルサレム神殿の境内に来たイエスに、祭司長、律法学者、長老たちが「何の権威で、んなことをしたのか。んなことをする権威をお前に与えたのは誰か」と問いかけました。

 ただ尋ねたんじゃありません。お偉いさんたちがこぞって、イエスの前に立ちはだかっんです。「イエス様、教えていただけますか」というような問いかけじゃなくて、「なぜあんなことをしたのか」と詰問(きつもん・とがめて問いただすこと)をしたんです。

 イエスは何を咎められているんでしょうか。「あんなこと」と言われているのは、前日に、神殿で商売していた人たちを境内から追い出し、両替人の台や鳩を売るものたちの椅子をひっくり返し、神殿を強盗の巣にしている、と批判したことです。

 

【イエスは詰問された】

 神殿で捧げ物をする時にも、様々な条件付けられておりました。それらをクリアする段階で商売して儲けていた人々がいたんです。

 イエスの前に立ちはだかった祭司長、律法学者、長老たちは、神殿での商売を保証する権威者であり同時に利権者であったことは明白です。

 神殿での利権を手に入れるために彼らは相当な苦労をしていたはずです。人々の信仰心を利用して、儲けていた宗教者たちがいたなんて、考えたくもないですが、そのようなことは昔も今も平気で行われています。そんな商売を邪魔されたことに怒って、利権者たちはイエスを詰問するために出てきたんでしょう。

 神殿での商売の上がりの一部を、ローマの当局に収めることによって、彼らは、その商売を保証してもらってもいたでしょう。そうだとすれば、ローマ当局やユダヤの行政当局の許可を権利として得ていたと考えられます。ですから、「誰の権威でんなことをしたのか」という問いの意味は、「誰の許可を受けてんなことをしたのか」という意味だと考えて間違いいでしょう。

 暴れているイエスをその場で取り押さえればさそうなものですが、それをしなかったのはなぜでしょうね。その暇もなく逃げられてしまったのかもしれませんが、あまりにも大胆な行動だったので、誰かの許可を受けているかもしれない、と恐れたかもしれません。

 どんなことをするにも、目の上の権威者からの許可を必要としている、と利権者たちは考えていた、と思います。社会というものは組織として運営されているので、上からの指示で動いたり、上から許可された範囲内で動くように定められているもんです。許可がなくては何もできないと思い込んでいる人が多いですし、そのように決められている場合がほとんどです。

 商売をするにも許可を得ていなければ無許可営業したということで取り締まりを受けます。そのようにして、自由がどんどん奪われておりますけれども、それはしょうがないこととして受けめざるを得ないようになっております。

 神殿内での商売のように旨みのある商売であればなおさらのこと、利権を得るために厳しい条件をクリアしなければならなかったはずです。そこまでして、当局からの許可や保護を受けなければできなかった商売を邪魔されたんですから、黙っていることはできなかったんです。だからイエスは詰問されたんです。うまく答えて言い逃れしなくては、イエスは捕らえられ、損害賠償請求さえ起こされかねない状況だったと推察できます

 

【イエスは怯(ひる)まなかった】

 お偉いさんたちから詰問などされると、誰でも怯(ひる)むもんです。怯むだけじゃなくて、答えられないような質問に対しても、何とか答えなきゃならいと思うもんです。そこで、言わないでいいことや、口から出まかせのような答えをする人が多いように思いますけれども、イエスかったのは、何事にも怯まなかったところです。死刑判決を受けた裁判の席でも、怯んだようには全く感じられません。どんな艱難(かんなん)でも受けてやる、と心を決めている人は肝(きも)が座っていて、すごいなあと思います。

 今日の場でも、詰問してきたお偉いさんたちにイエスは一歩も引かずに、逆に問い返しました。

 「ぼくの質問に答えてくれたら、何の権威でこんなことをしたか言いましょうと切り返したんです。利権者たちが、こんな質問を受ける所以(ゆえん)はありません。しかし、イエスの勢いに利権者たちの方が少し怯んだんでしょう。彼らが自分を取り戻す前に、イエスは間髪を入れずに、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか人からのものだったか、答えてほしい」とたたみかけました。

 この言葉で彼らはさらに一歩引き下がったようです。彼らが戸惑っている様子が上手に表現されております。彼らは答えに窮(きゅう)していました。利権者たちとイエスのやりとりに興味を持った群衆が周りを取り囲んで、その成り行きを見ておりました。

 ヨハネは預言者であった群衆は思っていたようです。そんな噂が立っていたんでしょう。だとすると、ヨハネが天からの権威を授けられ無いままにバプテスマ(洗礼)をしていたと言えば、どんな騒ぎになるかわからないと利権者たちは恐れたようです。だからと言って、天からのものだと言えば、それではなぜヨハネが殺されるのを黙って見ていたのかと糾弾(きゅうだん)されるかもしれないと恐れたんでしょう。

 彼らは窮した挙句(あげく)に、「わからない」と答えたようです。これもまたいい加減な答えだと思いますこのように問われたら、答えなければならない、と思っていたんでしょう。先ほども言ったように、これは決して答えなくてはならない問いかけじゃありません。彼らがもう少ししっかりした人たちであったならば、んな問いをイエスから受け付けることはなかったでしょう。「わたしたちに問いかける権利などお前には無い」と撥(は)ね付ければよかっただけです。ところが、そんな知恵も持っていなかった彼らは、常に権力に押さえつけられている人にありがちな対応しかできなかったんだろうと思います。窮した時に何も言えず、口から出まかせを言うように「わからない」と彼らは答えたんです。イエスの姿勢とは異なって、情けない対応だった、と思います。下手な対応をしたために、「それじゃ、ぼくも何の権威であんなことをしたのか、言いません」とイエスにあしらわれてしまったんです。勢いに押されて、その後何も言えなかったようです。

 はっきり言って利権者たちは誤魔化されて、煙に巻かれただけのように思います。彼らがこの時の報告を上司にしたなら、こっぴどく叱られたに違いありません。

 

【権威は周りの人から与えられる】

 それにしても、彼らは上からの権威に弱い人たちですから、「誰の権威であのようなことをしたのか」とイエスに詰問したように、権威のことを問題にしていたにも関わらず、自分たちが誰の権威によってイエスを詰問しにきたかということも忘れて、逃げ帰ってしまったという物語に、大切な真実が隠されているように思います。そこで、権威に関する大切なことを解き明かしておきましょう。

 事実を落ち着いて見ていただけると、利権者たちは、最終的に、周りに集まっていた群衆の反応を恐れたことが判っていただけるでしょう。

 この場面では、彼らは上から与えられた権威よりも、周りに集まった民衆を恐れていたんです。イエスは、周りの民衆に守られていたと言えます。

 権威は上から与えられるもんだと、思っているでしょうが、そうじゃありません。権威というものは上から押さえつけられて与えられるもんじゃなくて、周りから与えられるもんなんです。

 全体をまとめるために必要な権威(特別な仕事)は周りから信頼された人が、周りの人から与えられるんです。偉い人から権威を委ねられたからというので、権威者ぶっても、周りの人の信任を受けなければ、実質的なリーダーになれません。

 

【ぼくたちは】

 「わたしは最高の権威者であられる神から権威を与えられました」と言っても、それで済みません。周りの人が本当の権威を与えるんです。権威に対する今までの教えは現実と逆です。

 「父親の権威で命令する」と言っても家族はきません父として信頼されていなければならないでしょう。教師でも上司でも、政治家でも、信任がなければ、権威はありません。為政者国民を恐れているのがその証拠です。この物語は、ぼくたちの生活について、目から鱗(うろこ)が落ちるほどに、とても大切な真理を教えているです。イエスは周りから信頼されていたから権威があったんです。

 

1
Today's Schedule
2024.05.03 Friday