説教の題名を押して下さい
「健康になる」20210425
「健康になる」20210425
聖書 マルコ福音書 一章二十一節~二十八節
先日、愛車の十三年目の車検を受けました。
消耗部品を交換しなきゃならない箇所がたくさんあって、請求金額はかなり高額になりましたがしょうがありません。愛車の健康を保つということはそういうことです。
車のエンジンに砂埃(すなぼこり)が入ればシリンダーやピストンが傷ついて出力が出なくなりますから、エアーフィルターを通して空気を取り込むようになっています。車にもマスクをつけているようなもんです。時々埃を吹き飛ばして掃除したり、汚れが酷いと交換してやらなければなりません。ちょっとしたことに気を遣ってやるかどうかで、長期間、健康に走るかどうかが決まります。
いろんな所に不具合が起こるのはしょうがないことで、それを少しずつ調整したり修理したりしながら、機能全体を使える状態にしておくことが必要です。
もちろん、ガソリンが無くては走りませんし、タイヤの空気も、冷却水も、なにもかもがある程度揃っていなければ一応健康とは言えません。何か一つ欠けただけでも使えなくなります。
ぼくたち人間が健康である、ということもそれと似たようなことです。
【健康とは】
人の健康を定義するのは難しいことです。世界保健機構では「健康とは身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病のない状態や病弱でないことではない」などと、ややこしい定義が書かれているようです。身体のことばかりではなくて、全人的に見なければならないということでしょう。それぞれの団体が多種の定義をだしていることからわかりますように、曖昧な定義しかできないということです。まあこれくらいだったらいいだろう、というのが、いちおう健康だということじゃないでしょうか。
身体の代謝が一見正常であっても、精神的や社会的に良好でなければ病人だということです。良好であるかそうでないかというのも曖昧(あいまい)な表現でしかありません。
社会参加ができない状態が病人だとすれば、社会生活から隔離された高齢者や痴呆症の人も、人間関係が制限されている状態ですから、健康とは言えません。
身体的に問題なさそうな人でも、他人との付き合い方、価値観、時間の使い方によって、他人との社会生活の歯車が合わなくなると、精神的な障害を起こし、身体的な障害を誘発することにも繋がります。このように考えると、全ての人が病人になる要因を持っています。
ぼくは五〜六週間に一度程度の割合で血液検査をしますが、その結果表の右側には、健康とされている人の検査数値が目安として印刷されております。その範囲を超えると、異常であるとか要注意ということになるようです。
しかし、正常と異常という判断基準も統計的なものでしかありません。構成員のほとんどが肥満体の集団の中に、運動万能のいかにも現代の理想的な体の人が一人いれば、その人が平均的な数値と比べると異常だ、ということにされかねません。ですから平均値で正常か異常かを判断することもできません。
一点の曇りもなく健全だということはないのであって、問題点があっても、ひとつひとつ解消して行くことができれば、まあ健康ということでいいのかなって思います。
一見して健康だと見えても、そうでない場合もありますし、不健康そうだとか、目立った身体障害があっても、本人が健康だと自覚している場合もあるでしょう。まあ要するに、簡単に定義などできないということです。
いずれにしても、身体や精神に障害のある人も、人間関係に障害のある人も、何らかの障害があるわけですから、全員が病人といえば病人です。少し手当てしながら生活できればいいし、簡単な手当てで治らないときには病院に行く、という程度でいいんじゃないでしょうか。
【社会も病気である】
いま話題のことで言えば、名前を出すと削除されるらしいので、語呂合わせで5・6・7と言っておきますが、567の蔓延と行動規制の延長が報道されています。現状を、正確に判断できないような、偏った情報しか提供されていないことが許せません。
しっかりとした基礎を持っていない人たちが中心になって報道していることが許せません。
ウイルスの暴露がゼロでなきゃ健康だと認めない、なんていうのはこの世界の現実を無視した考え方です。現実の生活からウイルスを一掃することなどできません。人が腸内にいる無数の細菌と共存しているのと同じように、健康な体にもウイルスはいっぱい付きます。普段の生活を営む環境にウイルスは共存しています。ウイルスの居ない環境は、近代的な手術室で手術が行われる間に存在する程度です。ですから、ぼくたちの普段の生活環境では、ウイルスが付いても、体内への侵入を防いだり、ウイルスの暴走を許さない体であれば、充分に健康だと言えます。そういう、現実を知らない人の考えが、まかり通っている現在の社会状況が狂っているんです。
科学的な論証によって、ウイルスの暴露を過剰に怖れる必要がない、と主張する学者が存在しているにもかかわらず、彼らを全く無視して、一面的な解釈だけが公共機関を通して報道されている現状には、「ごまかし」があります。
根拠を明示しないまま、非科学的な結果だけが通知されているだけなのに、相当多くの人が、その大本営発表を信じ込んでいるのは、先の戦争中の構造に似ています。
こんなふうに簡単に人心が扇動されていくことが不思議でなりませんが、先の大戦の時も、このような大きな流れを止めることができずに、健全な社会活動が制限されていくことを眺めていることしかできなかった人々もいたことでしょう。とても悔しい思いがいたします。
【病人は孤立化させられる】
政府が要請を出した結果、飲食店、商店、学校、さまざまなサークルなどの人間関係が分断されていく過程を見せられることがたまらなく残念で不快です。
このような社会現象が起こるのも、民衆の病への怖れが掻き立てられているからです。恐れを乗り越えるには、専門家(権威者)の助言に従うしかない、という論法です。四十万人が死亡する、と言ったのも専門家です。信頼に足る専門家を見極める必要があるんです。
どこを見ても、まるでタレントのような専門家だけしか登場しない、という現実が、現在の風潮が尋常でないことを証明しています。
民衆を怖れさせ、怖れから免れる方法を専門家(権威者)が指導する。このような構造は、かつての宗教による支配構造と同じです。
現代は、見えない神を信じる人が少なくなって、宗教家(専門家)の命令に従わなければ地獄に落ちるぞ、という恐怖によって、人を縛り付けることができなくなりました。けれども、世界の指導者層は、宗教の神に代わる見えないウイルスを登場させることに成功しました。プロパガンダによって人を操(あやつ)ることは古代よりも現代のほうが簡単であることが証明されたようです。
恐れは人間関係を簡単に破壊します。人を孤立化させれば、操作しやすくなります。それが指導者層の狙いだったと気づきました。このようなことは現在に始まったことではありません。昔から一般庶民は、自由と幸せを奪われていました。
【イエスは人々を健康にしようとした】
聖書のイエスは、奇跡の力によって多くの病人を治した、と理解している人が多いでしょう。
しかし、正直なところ、病人の定義も明確じゃありません。今日読んだマルコ福音書のイエスの目的は、病人をただ治すだけではなかった、と感じます。具体的にマルコ福音書の記事を見ましょう。
最初にイエスは、安息日の会堂に入って頼まれもしないのに演説を始めました。どんな内容だったか、記録はありません。しかし「居合わせた人々は彼の教えにびっくり仰天し通しであった」(マルコ一章二十二節)とあるように、伝統的な教えに対立していたことは確かです。
そんなことをしたものですから、イエスの演説を聞いた人の中から、一人が飛び出して来て、イエスに言いがかりをつけたのも当然のことです。イエスを追い出そうとしたんでしょう。
お気づきになったでしょうか。ここに非常に重要なことが書かれています。この男が「穢れた霊の中にいる人だった」という言葉です。礼拝するためにユダヤ教の会堂にいた男を「穢れた霊の中にいる人」とマルコは表現しているんです。
会堂にいる全員がユダヤ教に捉えられている人々です。中でもこの男は精粋(せいすい・混じりっけない状態)している会堂長ででもあったんでしょう。
先ほど病人の定義について考えたことからしますと、会堂に集まっている全員が、まるで穢れた霊に取り憑かれている病人だということです。
イエスは、伝統的な宗教に凝り固まっているいわゆる病人の集まっている会堂にわざわざ入って、彼らを病気状態から解放しようとしたんだとマルコは言っているんだと思います。
【イエスの目指したこと】
神による裁き、それを招く罪、そんな構造に捉えられている人々が、刷り込まれた恐れを振り払うことは難しいのです。けれども、それを承知の上で、敢(あ)えて、イエスは、まったく異なった情報を伝えることによって、伝統的な宗教による刷り込みを振り払い、怖れから人々を解放しようとしたのだと思います。
なぜならば、捉えられている間は、人間同士の深い関係を作れないし、幸せになれないことをよく理解していたからです。専門家の指導に従っても、宗教が教える神の裁きから逃れることができないこともイエスは経験していました。
だからイエスは、伝統的な宗教に囚われて病人になっている人を福音(正確な情報)によって解放し元気になってもらおうとしたんだと思います。病気にかかったような状態から解放されて元気になりなさい、というのがイエスの福音宣教であったと言えるでしょう。
【ぼくたちは】