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「逃避行中の飼葉桶にメシア」20231227
「逃避行中の飼葉桶にメシア」20231227
聖書 ルカ二章一節~七節
マリアが苦悩し(ルカ一章二十六節~三十八節)、ヨセフも苦悩した(マタイ一章十八節~二十五節)ということを考えてきました。
こんな苦悩は誰も経験したくありません。けれども、彼らがこの苦悩を乗り越えたからこそ、イエスが誕生できたのです。福音書に書かれていたことが、いままで考えていた幻想的な物語でなかった事に気づいていただけたなら幸いです。
【望まれなかった子】
赤ちゃんは「待ち望まれて」生まれてくるものだと思っている人が多いでしょう。けれども、イエスは待ち望まれて生まれた子ではありませんでした。
ヨセフとマリアは婚約していました。しかし現代とは違って、二人は一緒に暮らしていませんでした。当時の彼らの社会は、結婚するまで二人が一緒に暮らす事を許さなかったからです。
そんな、厳しい社会で、婚約者ヨセフが知らないうちにマリアが妊娠していたことが判りました。誰もこんなことを望むはずありません。それにもかかわらず、マリアが妊娠しているという望まない現実がマリアとヨセフに降りかかったのです。
ヨセフには責任のないことでしたから、ヨセフはマリアと手を切ることにしたのは当然のことです。
しかし、なぜかヨセフはその決意を実行しませんでした。ヨセフがマリアを切り離してしまえば、マリアが落ち着ける場がないことをヨセフは悟ったからでしょう。「そのままのマリアを妻にしなさい」と、夢の中の天使が言ったんだろう、とでも言うしかないような出来事だったはずです。
【マリアの事件を自分の責任としたヨセフ】
マリアが誰の子を産むのか、ヨセフには判りませんでしたが、その現実が進んでいくことを黙って見ているだけでは、結婚前にヨセフがマリアを妊娠させてしまったことにされてしまいます。二人を知っている村の人々は必ずそう思ったでしょう。村の人々は、二人とも不謹慎だと決めつけたはずです。
マリアの妊娠を自分の責任にされることを選んで、ヨセフは誰にも何も語らなかったのです。これがマリアを護る最善の方法だと考えたのでしょう。
この方策で、石打ちにされる危険からマリアを護ることはできましたが、二人が住み慣れた村は、事件後の二人にとって住み辛い村になったはずです。
【二人の旅は逃避行であった】
結婚式を早めたのでもないようです。何をしようとも、マリアが実家でお産することも喜ばれなかったんじゃないでしょうか。だから、ヨセフとマリアは二人だけで、二人が育った村を出ていったのだと思います。
二人がベツレヘムに行ったのは、住民登録をするためだった、とルカ福音書の著者は書いています。けれども、ヨセフがダビデの血筋を示すために登録するのであれば、婚約者のマリア、しかも出産日が近くなっているマリアをわざわざ連れて行く必要はなかった、と常識的に判ります。
ヨセフとマリアが二人だけで村を出たという事実は認めますけれども、人口調査のためであったというルカの説明は後付けだと感じます。人口調査は確かにあったようですが、イエスの誕生の年代とのズレがあるのも確かなようです。実際の出来事が上手く織り交ぜられているので、話に引き込まれやすいのですが、ヨセフとマリアが二人だけで旅をした理由は人口調査のためではないようです。
とにかく、ヨセフとマリアは二人だけで村を出たのです。そうして、ベツレヘムにしばらく滞在したのだと思います。
降誕劇ではベツレヘムに着いたその夜にマリアが産気づいたことになっておりますが、それは舞台を設定する都合上のことだと思います。ついでに言いますと、東方から来た三人の博士たちが同時に登場する舞台も多いのですが、これも、前にお伝えしたようにあり得ません。お話を演劇にする人たちは、事実を適当に合わせて自分なりの物語にしてしまうものです。こう言うぼくも似たり寄ったりのことをしているのですけれども、伝統的に伝えられていることが正しいのだという思い込みから自由になっていただければ幸いです。
何を言いたいか、と言いますと、どうしようもない状態からマリアを救い出すために、ヨセフはマリアを連れて、村を出たということです。
身重のマリアを連れて知らない場所に出ていくことは、とても不安だったはずです。しかしそうせずにはおれなかった。マリアが安心して子を産むために選んだ方法だったのだとぼくは思います。
いわゆる、逃避行(とうひこう)、つまり世間の目を逃れて隠れ住む策を二人は実行したのだと思います。それほど二人を見る村人の目は冷たかったのでしょう。当時はそんな社会であったということです。このような状態はその地方では今も、現存しているはずです。また、時代が違えば日本でもそんな状況はあったはずです。とにかく、二人がとった行動は、二人が後ろ指を指されずにマリアが出産するための方法だったにちがいありません。しかもそれは何度もいいますように、逃避行だったはずです。
マリアを襲った事件の結果から逃れることをしなかった二人ができることはそれしかないと考えたのでしょう。そして、二人が摂った行動によってイエスは無事に誕生することができたのです。
【ゆりかごは飼葉桶】
それにしても、逃避行中だったならば、イエスの誕生を受け止める準備は何もできていなかったことも納得できます。それを窺(うかがい)い知ることができるのが、誕生間際のイエスが寝かされた「ゆりかごは飼葉桶」であったという記述です。
かつては日本にも、二階が人の生活圏で一階が馬屋になっていた住居があったように、家畜小屋が劣悪な環境を意味している訳でないとしても、家畜小屋で出産し、新生児を飼葉桶に寝かせることは当時でも考えないことだったはずです。そして、現代人のぼくらは、そんなことはあり得ないと考えるか、匂いも何も考えないで、幻想的な風景だと考える程度でしょう。しかし「ガザで生まれるメシア」(二千二十三年十二月三日)という題の説教で言いました通り、現代には瓦礫の中に寝かされる新生児が実在します。ヨセフとマリアと新生児イエスの実態は御伽噺ではなくて実際に現存する話なのです。
【ぼくたちは】
自分たちを救ってくれるメシア(救い主)は権力者だと考えている人が多いでしょう。しかし、そんな考えは単なる思い込みに過ぎないのだとイエス誕生の物語は教えています。
人を救う出来事は、貧しさや過酷な状況の中でこそ見い出すことができるのだ、とイエス誕生の物語は、ぼくたちに教えているに違いありません。