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「価値観を外してごらん」20200524

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「価値観を外してごらん」20200524

聖書 ルカによる福音書 十一〜三十二節

 

みんな優しくつつまれたい

 動物を被写体にした番組が多いのは、動物の可愛い仕草を見たい人が多いからでしょう。ぼくはそういう番組を見ませんが、例外として「ダーウィンが来た」だけはよく見ます。

 どの週の放送をてもみんなパートナーを見つけるために頑張っている、ということにはあきれてしまいます。生物の究極の目標は子孫を残すことだからでしょう。そうだとすれば、人間も動物ですから、基本的に同じ目標を持っているはずです。

 鳥たちは飾り羽を見せたり、踊ったり歌ったりするのは見つけた相手に気に入ってもらわなきゃならないからです。人間も同じようなことをして、気に入ってもらえるように、必死に努力するんだと思います。けれども、人はとても複雑な動物へと進化してしまいました。だから、お互いに気に入るかどうかは、見かけや努力だけでは決まりません。

 それでも、何とか気に入ってもらいたいと思っているんでしょう。先週も言った、人間は包まれたい、すなわち、受け入れてほしい、愛されたい、と思っていることに通じているはずです。

 そうだとすれば、人間が聞いて喜ぶ言葉は、包み込んであげる、愛している、受け入れているというような言葉に違いありません。

 先週も言いましたように、人間は誰もがつつみ込まれていたはずです。ところが、成長する過程で、いろんな判断と評価を受けて、つつまれていることを、忘れてしまいますが、立ち帰りたいところはつつまれたいといことです。

 どんな状態であっても、自分がつつまれていることを知れば、人は救われます。このことがわかれば、人の心は本当に強くなる、とぼくは信じています。

 しかし、どうのこうの、理由を付けずに、赤ちゃんだった時のように、そのままで包み込んで欲しいのに、社会は包み込んでくれません。一般社会だけでなく宗教も人間を価値判断しますから、そのままを包み込んでくれません。だから宗教も人を救うことなどできません。

 

放蕩息子の譬話

 そういう一般社会の常識では考えられない話を今日はいたしましょう。

 イエスが語った譬話(たとえばなし)の中に、次の話があります。「放蕩息子のたとえ」として有名な譬話です。

 父親の財産を生前贈与してもらって家を出た弟が、ほどなく財産を使い潰して路頭に迷うほど落ちぶれた後に、おめおめと、すなわち、恥(はじ)を承知の上で実家に帰って来るという話です。

 厳格な親でなくても、そんな息子を黙って赦さないと思うんですが。譬話の父親は、ボロボロになった息子が、まだ顔も見えないほど遠くにいる間に気付いて、走って迎えに出て抱きしめて、息子として受け止め、「死んでいた息子が生き返った」と喜んで祝宴開いて楽しみました。

 放蕩息子は、何とか労働者の職と食べ物にだけはありつけるだろう、という打算的な気持ちで実家に帰っただけですから、そこまでしてもらえるとは思っていなかったほどの歓待を父から受けて驚いたに違いありません。けれども、もっと驚いたのは兄です。一日の労働を終えて家に近づくと宴会騒ぎが聞こえたので、何があったのかと雇人に訊きますと、「弟さんが無事な姿で戻ってこられたので、お父上が肥えた子牛を屠(ほふ)ってくださったんですよ」と聞かされた兄は、家に入ることができなかったほど、腹がにえくり返ったようです。

 ちょっと聞いただけでは、ありそうも無い話に思えます。しかも、父親は理不尽だと感じて、みなさんも同情なさったでしょう。それが一般的な感情です。

 

【ぼくたちは価値観を埋め込まれている】

 しかし、その当たり前の思いに、価値観と評価が入り込んでいることにみなさんは、お気づきになっているでしょうか。

 兄のように、真面目に働くことは良いことだという価値観をぼくたちは持っています。その感覚で見れば、弟はどうしようも無い人間です。兄のような人が報われて当然だと思います。なのに、畑で働いていた兄には宴会のお誘いさえ来ないんですから、そんなことあっちゃいけないと思いますよね。

 そんな感覚で、この譬話を読むと、こんな理不尽な物語をなぜイエスが語ったのかと、疑問を持つんじゃないでしょうか。

 兄は真面目に働くことで、息子として父親に高く評価されたいと思っていた、と想像できます。兄の価値が高いことは間違いない事実だと思っておられるんじゃないでしょうか。それが当たり前であるから、そうなけりゃならない、といでしょう。

 

【価値観を外せばどちらも息子】

 しかし、このような一見理不尽な状況にこそ真実が隠されている、とイエスは言いたかったんだとぼくは思います。

 この物語の父にとって、兄も弟も大切な息子なんです。家計のためには真面目に仕事する兄のような人の方が良いに決まっているようなもんですが、遊びほうけて、財産を半分ほども無駄に使ってしまった弟も、父にとっては掛け替えのない息子だということです。

 兄は、価値がある仕事をしたから息子であるわけじゃない。弟は、多くの財産を無くしたから息子でなくなるわけじゃないんです。兄も弟も大切な息子なんだ、ということ言いたいんだと思います。

 世の中の経済的な価値観で判断すれば、と弟は、雲泥の差があることは確かです。だから商売の価値観を家庭に持ち込めば、兄は良くて弟は悪いということははっきりしていますし、兄は立派な息子で、弟は息子とも呼べないような悪い子であることははっきりしています。ただし、仕事による価値判断を除けば、父にとって、兄も弟も大切な息子であるということです。

 

【兄も弟も父を誤解していた】

 ボロボロになっていた弟は、父に抱きとめられつつまれて、父に愛されていることを実感します。一方兄は、自分を高く評価してくれない父に反感を覚えます。

 真面目に働いてきたから、弟よりもたくさんの報酬をもえてもいいはずだ。弟よりも大切にされていいはずだ、と兄は思っているんです。

 多く読者もそういになるはずです。なぜそう思うのかと言えば、真面目に働いて価値を生み出すことが評価の高いことだ、と思っているからです。

 しかし、たくさんの価値を生み出した方が高く評価されるというのは、商売(ギブアンドテイク)の考え方です。しかし譬話では、そうではありません。ということでわかるのは、父と子の関係は、価値観に全く関係ない、ということで、ここではそれが一番強調されているんだと思います。

 

【働きに関係ない】

 労働で高い価値を生み出していた兄が、一所懸命働きすぎて病気で寝込んだり、怪我して労災で働けなくなったとしても、ボロボロの弟を包み込んだように、父は兄をも包み込むはずです。

 どちらにしても、生活面でつらいことに変わりませんが、それでも父が息子たちを包み込むことに変わりはない、ということが重要なんです。

 高い価値を生み出せない人はいらない、と言う人もいるでしょう。そのような価値観の人に、この物語を認めてください、とは言いません。

 けれども、周りにとって都合いいから大切にされているんだと思って、喜んでいる人が、いつまでも都合いい人であり続けることができないのは目に見えているはずです。

 歳をとって動けなくなったら、評価されない惨めな人間だと自分で自分を判断するんでしょうか。そんなこと納得できるんでしょうか。もしそうであるならば、その考え方を尊重します。しかし、そんなに安心できない生活をぼくはしたくありません。

 

【イエスの福音は誰でも安心できる】

 イエスは、この物語を通して、そんな人をも安心させる言葉を伝えたんだと思います。

 イエスの言葉は、人間誰もが、一番聞きたい言葉です。世の価値観に関係なく、あなたは受け止められている、抱かれている、つつまれている、その事実は、状況がどうであろうと変わらない、ということですですから、イエスご自身がお伝えになった福音は、あなたもわたしもそのままでつつまれている、これからもつつまれる、ということです。

 

【ギブアンドテイクは救いじゃない】

 そうであるならばオーソドックス(伝統的)な教会が主張しているように、あなたの罪を赦すためにキリストが十字架にかかって命を捨ててくださったことを信じれば救われる、そうでなければ救われない、などということは、イエスが伝えた福音とまったく関係がないと判るはずです

 あなたを救うために、イエスがあなたの罪を償(つぐな)う犠牲になった、ということに納得している人が多いですけれども、犠牲の供物を渡して罪(負債)を無くしてもらう、というのは、商売(ギブンドテイク考え方です。商売の論理で子供を育てられないように、商売は「愛」と関係ありませんイエス犠牲になったという考え方は、商売ですから、すべての人を救いません。宗教は誰も救えません。多くの宗教が代価を求めるのは、それらが商売する企業と同じだからです。

 これに対して、自分には価値がないと思って、おどおどしている人を代価も犠牲も求めることなく、あるがまま、そのままを包み込むことが愛です。

 代価が必要ならば、ギブアンドテイクです。そんなものを大仰(おおぎょう・おおげざ)に「赦し」などと言って欲しくないです。商売が成立したとは言えますが、赦されたとは言えません。お判りになりましたでしょう。

 

【ぼくたちは】

 今日紹介したイエスの譬話には、「そのままでいいよ」などという言葉はありません。イエスはそんな言葉を残していません。けれども、譬話からわかることは、評価の基準などまったく関係なくて、どんな状態であっても、そのままでつつまれるということは判ります。イエスが伝えたかったことはこれだけだと言って過言じゃありませんこの安心の中で生活していけばいいということです。

 伝統的な解釈や教えに固執する必要はありませんからね。みんなが自由になって活き活き生活できるように、イエスは命を賭けて、イエス自身が理解した福音(情報)をお伝えになったんですからね。

 何度も言っておきましょう。あなたはそのままでつつまれているんです。これからも、どんな状態になってもつつまれるんです。このことを忘れないで安心して生活なさってくださいますように。

 

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