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「神はキャラクター」20200621

「神はキャラクター」20200621

「神はキャラクター」20200621

 

聖書 出エジプト記 章一節〜

 

 最近のぼくは、素直に、心に湧いてくることを実行するようにしています。だから他の人にも、自分のしたいことをすればいいんだよ、言うようにしています。ところが、したいことが判らない、とおっしゃる方が多いんです

 そこで、したいことに気づく簡単な方法をご紹介しましょう。それは、今の自分を見つめて、いま置かれている状況から、しなければならないと感じることをすることです。それだけです。

 天候を考えても判りますように、人間の努力ではどうにもできないことがあります。生まれた場所も時代も親も取り替えることはできません。努力で変えられないことがあるんです。そこが大事です。取り替えの効かない今の自分しっかり理解して、そこを出発点にすれば、やりたいことが見えてくるはずです。そういうことが重要です。

 

【自分の生活を創造した人々】

 交換不可能な場所に立っているんですから、そこから生活創造しいけばいいだけなんです。

 社会の流れに迎合(げいごう・他人のきげんをとること)しないで、自分の生き方を創造したとして、先週は、アブラハム紹介しました。今日は、モーセを見ましょう

 

モーセの場合

 モーセは、おおよそ三五〇〇年ほど前の人だと思ってください聖書の出エジプト記によれば、モーセはの声を聞いてエジプトで奴隷になっていた人々を救い出す使命を与えられたことになっています。出エジプト記三章一節〜十節

 それによると、モーセは羊飼の仕事をしていた時に、不思議な炎を見て近づいた場所で、神の声を聞いたことになっております。神」の言葉「従って」エジプトに行って、奴隷を解放する働きをした、ということ、一応、なっています。

 しかし、時系列で考えると、モーセは、イスラエルという国や、その宗教であるユダヤ教が確立するよりも数百年も前の人です。ですからモーセには「ユダヤ教の主なる神」のイメージなどかったんです。

 あなたはどなたですかと質問しているエピソードが伝えられていることから判る通り、モーセは、自分に語りかけた相手のことをぜんぜん知りません。考えたこともない誰かから自己紹介を受け、命令を授けられたなんてことは、後の時代に作られた神話です。現実にはあり得ません。

 アブラハムの時にも言いましたようにモーセの時代も今と同様に、神の声など聞こえません。神の声が聞こえるのは神話の中だけです。神の声聞こえないというのが交換不可能な現実これがぼくらの立ち位置出発点です。多くの人は、神話から出発するから話がぐちゃぐちゃになるんです。神話を出発点にしてはダメです。

 

【神話の神の声を聞いたのは神話のモーセ

 話のとっかかりとして、まあとりあえず、モーセが登場する神話を紹介ますけれども、神話であることをお忘れになりませんように。

 モーセはエジプトで奴隷になっていたヘブル人の子供として生まれております。その頃は、奴隷の勢力が強くなることを恐れたエジプトの支配者ファラオの命令でヘブルに生まれた男の子は殺さなければならないことになっていたようです。しかし、殺すに忍びなかったモーセの母は、隠して育てました。三ヶ月ほどして、隠し切れなくなった赤ちゃんをパピルス編んでアスファルトで防水処理した籠を船に見立てて、ナイル川に流しただそうです。それを見つけたファラオの王女に拾われ、「モーセ」と名付けられ育てられたことになっております。

 大人になってから、自分の出自を知ったモーセは奴隷をかばおうとした時エジプト人を殺してしまいます。そのためにエジプトから逃げ出して、シナイ半島の南端まで逃げたところで家庭を作って生活していました。

 モーセの舅(しゅうと)エトロはミデアン部族の祭司であったと書かれております。そしてエトロの羊の世話をしていた時に、その地方で神の山と呼ばれていたホレブ山の麓にいた時、燃えているように見える柴がなくならないという不思議な光景確かめようとして近づいた所で、神の声を聞いたことになっております。

 この神話によると、「モーセよモーセよ」「ここに近づいてはならない、履物(はきもの)を脱ぎなさい。君の立っている場所は聖なる土地だから」と「神」がモーセにおっしゃったことになっております。この神の言葉が面白い、ということについては、二〇〇八年二月十日「土足厳禁」と題した説教でも紹介しました。

 「土足で踏み込む」ということが下品で無礼なことであると理解されているように、ぼくらは家に入る時にも、お寺や神社の中に入る時にも履物を脱ぎます。内と外を明確に区別する国民です。聖なる所に足を踏み入れる時に履物を脱ぐのは当然のこととして捉えております。同様に、モーセが神の声を聴いたのは、聖なる所だった、というわけです。

 面白く感じたのは、モーセは言われなきゃわからなかったことです。ということは、聖なる所と、そうでない所に明確な違いがなかった、区別できないような所だったので、指摘されるまで、モーセはそのことに気づかなかった、という表現です。

 要するに、聖なる所とそうでない所があるわけではないということがこのエピソードの一番重要な強調点だとぼくは感じています

 

【聖と俗の結界はない

 聖なる所とそうでない所、俗なる所と言っていいかどうかはわかりませんけれども、とにかく、ぼくたちは柵を立てたりして、結界(けっかい)を設けるのが好きです。聖と俗を分けて、明確差別化するのが現代社会のシステムです。

 伊勢神宮の山に入る前には大きい見事な鳥居があって、神の山への入り口だけが示されております。現実には鳥居だけしかありませんけれども、鳥居の上下左右には、無限に続く大きな壁があることを主張しています。壁なんか実際に作りませんけれども、そこから奥は聖域であるということを明確に示しているんですから、すごい想像力と技を感じます。

 時代や文化が異なりましても、そのような明確な分離というものは、行われているのが社会の常識でるようです

 

【著者は結界だらけの神殿礼拝を否定している】

 ところが、面白いことに、今日読んだ聖書の神話には、聖と俗に実質的な切れ目がないということが示されているようです。そうだとすれば、神話の著者は、ぼくらが持ってい宗教感覚と随分異なった主張をしていように思います。それどころか、むしろ、社会の常識に対立する感覚を主張しているようにさえ思えます。

 ソロモンが建てたユダヤ教の神殿にも、聖と俗の分離は明確に設けられておりま。そんな神殿にまつわる宗教の原則を教えるために書かれた聖書の中に、モーセが歩いた所には、結界と思(おぼ)しき物は何もなかった、という逸話がはめ込まれているんですから、興味がそそられます。

 神がモーセに語ったという神話を通して、著者は聖と俗の間に結界はないのだということを示してるのだとすれば結界だらけの神殿での礼拝の仕方を厳しく批判している、と受け取るのが自然である、とぼくには思えます

 とにかく、結界のないところで、モーセは神の声を聴いた、という神話のこの部分は愉快です。

 神話のモーセ、神の声を聴きたい、と思っていませんでしたし、聞こうとしておりませんでした。特別な場所や環境を作り出して熱心に祈り求めていたわけでもありませんでした。モーセは、いつものように、ただ自分の仕事をしていただけです。

 聖なるところで神の声が聞こえるというのは幻想です。なる所そうでない所というものが実際にはないのだというのが神話の著者が言いたかったことではないでしょうか

 もう一歩踏み込んで言わせていただくとすれば、どこであろうと、神の声など聞こえないというのが現実です。

 

【キャラクター】

 モーセの舅(しゅうと)エトロという人は祭司であったということですから、モーセもそれなりに宗教教育を受けていたと思いますけれど名も無き神から語りかけられた、という面白い表現でもわかる通り、モーセに語りかけた誰かは、地元の神のイメージにも沿っていなかったようです

 いずれにせよモーセの神も、アブラハム神話に登場した神と同様に、後のユダヤ教が作り出した神話に登場するキャラクターです。

 神話の神の声は神話の中だけでしか聞こえません。「神」の声は現実に生活している生身の人間には聞こえません。

 この動かし難い現実からスタートすればわかることです。そうだとすれば、神と対話したモーセも、生身のモーセじゃなくて、神話のキャラクターであることがわかるはずです。

 

【ぼくたちは】

 多くの信徒も学者も、モーセはどのようにして神の声を聞いたのか、わたしたちはどのようにすれば神の声を聞くことができるのか、などと考えてきたはずです。けれども、その答えは判っていません。なぜならば、この問いの立て方が基本的にズレているからです。神の声は聞こえるということを前提にしているのがおかしいんです。どんなことをしても、どんな所に行っても、神の声なんか聞こえないのが現実です。現実を基礎にすれば、この問いの設定がおかしんだと判るはずです。

 神の声は聞こえないということを前提にすれば、生身のモーセが、偉大な人物と称されるようになったのは、天からの声に従ったからじゃない。そうではなくて、自分の心に響く声を聴き、出自の民族のために、自分のできることをしたからです。モーセは「自分の声」に聞き従ったです。

 モーセが自分の使命に気づいたのは、モーセが自分の仕事をしていた時でした。もない、結界のないところでした。これが最も大切なことです。

 普段の生活が営まれているところ、あなたが生活している場所、寝起きし、ご飯を食べ、排便し、働、友だちと過ごし、勉強している場所、汚いところも綺麗なところも、どこでも、自分のしっかり立っている所であれば、自分の気持ちに気づくことができるということです。むしろそこでしか気付けない、と言っておきましょう。

 十二年前にした説教では「土足厳禁」「靴を脱げ」とおっしゃった神は、「君の立っている所が、聖なる所だ」とおっしゃった、と言いましたけれども、訂正します。神の声を聞くことができる特別な場所なんかありません。もともと神の声は聞こえません。ぼくたちは、神の声を求めずに、自分が置かれた場所や経験してきたことを土台にして、自分で考え行動れば十分なんです。

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