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「待てないなら家で食って来い」20230108

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「待てないなら家で食って来い」20230108

聖書 第一コリント 十一章十七三十四

 

 西野バプテスト教会の慣例によりまして、元旦礼拝はありませんでしたので、今日が二〇二三年一回目の説教です。

 暦(れき・こよみ)という考え方は生活にリズムをつけるために作られたものです。改めるのは自然現象を観察した結果です。地球が太陽の周りを一周するのを一年として、その間に地球がほぼ三六五回自転している訳です。スタートをやり直すよという日が元旦です。地球は球体ですから、朝日の昇時刻は経度によって異なります。ぼくらがカウントダウンして「おめでとう」って言った時には、まだまだおめでたくない国がいっぱいあるのです。ふだんはほとんどの人は感じていないのですけれども、現実には時計の時刻の合わせ方が違うんです。

 当たり前だとか常識だと思っていることが、実は自分だけの思い込みであることが多いのです。「今」という時間の考え方すら同じではないのすから、調整しなければならないのです。

 とにかく、ぼくにとって年の初めの礼拝は今日ですから、日本中の教会より一週間遅れのスタートです。ぼくたちも、一応、区切りをつけて一年を始めることにいたしましょう

 大阪で生活していた子どもの頃のことを思い出しますと、元旦には小さな食卓に全員揃ってから、こどものぼく父が小さなおちょこにほんの少しだけ日本酒を注いでくれました。そして「明けましておめでとうございます」と父が年頭の挨拶をしてから前日ギリギリまで母が準備したお節料理をいただく特別な祝宴が始まったものです。今日の説教では「イエスの晩餐」について考えていくことにしました。年の初めに「イエスの最後の晩餐」について話すというのはちょっと合わないようにも思いますが、特別な席の大切な食事という意味で取り上げました。

 

【最後の晩餐と主の晩餐式】

 イエスは官憲に捕えられる前に、主だった仲間たちと最後の食事をなさいました。いわゆる「最後の晩餐」です。

 現在の教会でも、この食事を記念して「主の晩餐式」を月に一度実施しています。「聖餐式」と呼んでいる教会もありますが、特別に神聖化しているので、ぼくは使いません。カトリックでは毎回のミサで、パンというよりも小さな煎餅のようなものを司祭が信徒の口に入れてくれるようです。もらったことないので知りません。カトリックの信者しかもらえないのです。カトリック(伝統的なキリスト教)に抵抗したプロテスタント(抵抗者)は差別されている訳です。

 これに対しましてぼくらの教会では、礼拝に来られた全員でパンと葡萄ジュースをいただくようにしています。カトリックに差別されていたプロテスタントでも、信者にしか与えないという差別的な教会多いはずです。最近は他の教会のことを知りませんが、少なくとも、ぼくが牧師になった頃は、ほとんどの教会では、信者だけしか「主の晩餐式」に参加できないことになっていました。

 ぼく自身も、おさない信者だった頃は、信者(クリスチャン)と未信者(ノンクリスチャン)の間に分離差別があることなど気にもとめていませんでしたが、東京の神学校を卒業してから、西南学院大学の神学部に編入させてもらってから劇的な変化をいたしました。

 西南神学部で二年目を迎えた春に、ぼくの恩師になってくださった青野太潮先生が着任されたのです。ぼくが最初に学んだ東京の神学校ではいわゆる保守的神学を教えられていましたので、正直なところ、青野太潮先生が教えてくださっていることは初めは全く理解できませんでした。現在の総理大臣もそうらしいですが、理解できなくてもじっくり聴くのがぼくの長所です。すると、夏休みの宿題として与えられたブックレポートをまとめている頃に、なんとなく判ってきたんです。先日贈ってくださった青野太潮先生の新刊には「どう読むか、聖書の『難解な箇所』」という題がつけられておりました。ちょうどそのように、先生は聖書をどう読むかという聖書に対する姿勢を教えてくださったんです。

 

【食事が重要】

 授業の中で、まだ日本語に翻訳されていなかったゲルト・タイセンという神学者の本の中の一部分を紹介してくださったんですが、そこには今日読んだ聖書の箇所、すなわちコリント教会における「主の晩餐」の様子が取り上げられておりました。

 パン裂き、すなわちパンを分けることで始めるコリント教会の主の晩餐、最後にブドウ酒の盃を廻して〆られたようです。その説明の中「食事の後(二十五節)という言葉が書かれているのですこれを「パンの後で」という意味に思い込んでいました。しかしそうではなくて、パン裂きと〆のブドウ酒の間に実際の食事があったのだということを教えられました。この言葉の本当の意味を知ることが、この部分を理解するために大切だったのです。

 「主の晩餐式」や「聖餐式」や「ミサ」として、儀式的に行っているうちに、実質的な食事忘れられていたのです。「食事」という言葉を最初に分けるちっちゃい一切れのパンのことだと思い込んでいたのです。しかしそうではなくて、パン裂きとブドウ酒の間には実際の食事があったことを知らされて、この後の部分も納得できました。コリント教会では、遅くに来る人を待っておれずに、パン裂きを始め、各々が自分が持ってきた「自分の分」の食事をして、たくさん持ってきた人は満腹になるだけではなく、酔ってもいたようです。時間を自由にできないために遅れてきた人たち自分の分を持ってくることさえままならない人(貧しい人々)が、ようやくの思いで集まりに参加した時には何も食べるものがなかったというのです。

 自分の身体を食えと言い、新しい契約のために自分の血を流す、とおっしゃったイエスの最後の晩餐を象徴して「主の晩餐」をすると言いながら、これでは本末転倒だとパウロは怒っているのです。儀式化した行事が大切なのではなくて、本当にみんなで食事することが大切なのです。この部分のパウロのまとめは、仲間を待てないほど腹が減っているなら、家で少し食って来いという言葉です。

 「最後の晩餐」に限らず、福音書にはイエスの食事風景がたくさん描かれています。その特徴は、罪人と呼ばれていた人々と共に、差別なく食卓を囲まれた事実です。宗教によって差別しな共食がイエスの福音なのです。共食のない福音は偽物です。最後の晩餐には主だった人々だけが招かれたようですが、彼らとて、イエスが逮捕された時にはイエスを裏切って逃げた者ばかりであることから判るように、イエスは人々を差別していません。

 

【ぼくたちは】

 食事の席で人々を差別などなさらなかったイエスの弟子を自称する教会が主の晩餐式の場で人を差別などできないはずです。クリスチャンかノンクリスチャンで人を分けたり差別しない。人を分けずにパンを分け合う。遅れて来のために待ち合わせる。それが「主の晩餐」の意味です。教会の礼典を用いて人を差別するなど許されません。ぼくたちは、福音書に残されたイエスの生き様を大切にして、それを自分たちの生活の中で実践していきましょう。ぼくたち全員が受け入れられ招かれているのですから。

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