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「神に祈るな」20240204

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「神に祈るな」20240204

聖書 ルカによる福音書十一章節~四節

 

 いわゆる神という表現は使う人によって異なります。イエスが生活なさっていたユダヤでは、神と言えば、旧約聖書が表現している神ヤハヴェを思い浮かべるはずですが、イスラム教のアッラーにせよ仏教のブッダにせよ、民族ごとに千差万別です。たくさんあるということは、人間では理解できない至上の存在を想像する賢い人たちがたくさんいたということです。しかも、偉い人たちでさえ、はっきり理解できないということです。人間の理解を超えた存在なんて、いくら考えても行き着けるはずありません。

 ユダヤ民族が経験したことを通して、想像した神をさまざまな表現で記録しているのが、いわゆる旧約聖書です。神について統一した理解を得ようとして、ラビ(ユダヤ教の先生)たちは、自分なりにさまざまな表現をしてきたようです。その研究結果もユダヤ教の中では聖書以上に重要視されてユダヤ教徒の生活を規制していたです。

 そのような伝統的なユダヤ教によって教えられてきた「神」のイメージに納得できなかったイエスは、伝統的なユダヤ教の神イメージを捨てたはずだと先週の説教で言いました。イエスはユダヤ教のイメージする神を捨てたのです。

 しかし、イエスの生活環境はユダヤ教の真っ只中でした。イエスは自分が気づいたこと、すなわちユダヤ教の神のイメージを捨てたことで、難行苦行する必要もないし、神に対する罪の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれる必要もないことに気づいたのでしょう。荒野での苦行までしたイエスにとって、これこそ救いだったと思います。

 イエスの周りの一般庶民も病人も障害者も、ほとんどの人が神に対する罪の呵責に苛(さいな)まれていたので、その状況から解放するために、イエスは自分の悟りを多くの人のために公表することにしたのだと思います。イエスの福音宣教を簡単に言い表すとこのようになると思います。

 ただし、先ほども言いましたように、イエスの周りはユダヤ教徒ばかりですから、「神」(神を言い換える言葉で主という意味のアドナイを使ったとしても同じ)という言葉を使わないで、自分の福音を伝えなければならなかったのです。なぜならば、神と言った途端に、ユダヤ教徒はユダヤ教の神を連想してしまい、そこから抜け出せなくなってしまうからです。

 

 ユダヤ教の神を連想させることなく、ユダヤ教の神のイメージから人々の思考を解放するために、イエスは自分の言葉で、自分の責任で自分の悟りを語り出したのです。

 そんな苦労をしていたイエスに同行いわゆる弟子たちは難題を持ちかけてきました。

 

【祈りをせがむ弟子たち】

 その難題とは、祈りを教えてくださいというリクエストです。

 というのも、かつて、イエスが師事した荒れ野の修験者(しゅげんじゃ)バプテスト・ヨハネの弟子たちは師匠(ししょう)ヨハネから祈りを教えてもらっていたらしいのです。弟子たち同士の話の中で知ったのでしょう。「先生、ヨハネの弟子たちはヨハネから祈りを教えてもらったと言って自慢していました。ぼくらにも祈りを教えてください」とでも言ったんでしょう。

 この時点になって、祈りを教えてくださいと弟子たちが催促(さいそく)しなければならなかったということは、弟子たちもユダヤ教徒ですから小さい頃から教えられた祈りはできけれども、自分の師匠から祈りを教えられたことはなかったということです。そこから判るのは、イエスは独創的な活動をしていにもかかわらず独創的な祈りを弟子たちに教えていなかったということです。多くの教会では何かにつけ、祈りなさい祈りなさいと教えますしイエスも祈っておられたと書かれておりますけれども、実際には、祈らなかったではないでしょうか。少なくとも弟子たちの前では祈らなかったのです。

 

【気抜けする祈り】

 弟子たちにせっつかれたからしょうがなくイエスは祈りを教えたのだと思います。弟子たちはカッコ良い祈りを教えてもらえるだろうと期待していたに違いありません。ところがイエスが教えたのは、皆さんもよくご存知のあの有名な「主の祈り」です。マタイ六章七節~十三節ルカ十一章一節~四節に記録されているものと、教会員が暗記しているものは、細部において異なっております。今日ルカ福音書の記事を取り上げましたのは、このほうがイエスの真正の言葉に近いと思うからです。たとえば冒頭の「父よ」という呼びかけがマタイでは「天におられるわたしたちの父よ」となっているのですが、短い方が写本形式としても古いと思われるからです。
 さて、イエス教えた祈りが「父よ」という呼びかけで始まったを聞いた途端に弟子たちは、吉本新喜劇のように、全員がズッコケてしまったに違いありません。
 神の名をみだりに唱えてはならないという十戒の教えの故に、「神」の名(ヤハヴェ)を口にすることさえ許されなかった社会です。それほど崇高な神に向かってどんな祈りが教えてもらえるのだろうと期待していた弟子たちは度肝を抜かれたはずです。しかも「父よ」と翻訳されている言葉は、「アッバ」という呼びかけでしたあえて訳せば「おとうちゃん」なのです。かわいい娘から「パパ」と呼ばれますと「なんや」と優しく答えるような関係で使う言葉です。スナックのお姉ちゃんから「パパ、もう一杯飲んでもいい?」なんて言われたら、「お前にパパなんて呼ばれる筋合いはない」と怒りますから、本当に親しい間柄でなければ使えない言葉です。
 「アッバ」と呼びかける相手が、ユダヤ教が教えてた神でないことは確かです。
 

【ぼくたちは】

 とは言え、礼拝式の中で「おとうちゃん・・・」とは祈りにくいから、ぼくは決意を込めて「アッバ」と呼びかけています。相手は怖い神じゃありません。このように祈りなさいとイエスが教えたんですから、イエス様に従いますとおっしゃる方は、みなこのように祈りましょうとおすすめするのですが、なかなか広まません。ユダヤ教から学んだ怖い神様を連想して祈っている方が多いからでしょう。しかしイエスの「アッバ」がユダヤ教の神でないことは確かです。それならば、アッバとは何かという疑問が湧いてくるでしょう。それについて語りたいところですが、ちょうど時間となりました。続きは、次回を楽しみにお待ちください。

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