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「アナザーストーリー第四話」(羊飼い)20221225
「アナザーストーリー第四話」(羊飼い)20221225
聖書 ルカ福音書 二章 八節〜二十節
四週間前から、降誕祭(クリスマス)を目指して説教してきました。最初にマリアの婚約者ヨセフの視点から、次にイエスの母マリアの視点から、そして、占星術師の視点から考えてきました。今日は羊飼いの視点から考えてみます。
【天使と羊飼い】
札幌には「羊ヶ丘」という観光名所があります。羊が少し飼われているのですけれども、さすがにペットにしている人はいませんから、羊飼いが登場する物語は、ぼくたちには馴染みの薄い物語です。
さて、今日の話にも、天使が登場します。ルカは天使を使うのが好きなようです。天使を使うのは神だけだと思っていましたけれども、どうやら天使をよく使うのはルカです。
今回の天使は、「お前は男の子を産む」とマリアに突然宣告した天使ほど暴力的ではありません。少し優しく感じます。
「救い主がお生まれになった」という喜びの訪(おとず)れを、天使は羊飼いたちだけに伝えたようです。近頃のセールストークのように、心をくすぐるようなお知らせをして、見に行きたくなるようにしています。「会いに行け」などと無理強い(むりじい)しておりません。
少し優しい感じがする、とは言いますものの、天使にはいつも驚かされます。というのは、天使はいつも突然に現れるからです。
夜に羊の群れが襲われないために、羊飼いたちは夜通し、野原で、羊の群れを見張っていたのだそうです。焚き火をしていたかどうか判りませんが、野原ですから、周りはもちろん真っ暗だったという設定です。そんな状況で、突然に、神の栄光に照らされた天使が現れたと描かれています。真っ暗な夜の野原に突然、スポットライトに照らされた天使が現れたのだとすれば、羊飼いたちは腰を抜かすほどビックリしたに違いありません。
ルカが使う天使は、思いっきり羊飼いたちをビックリさせてから、おもむろに(おちついたようすで)「恐れるな・・・」と語りかけます。
おどかしてから、驚くことはない、なんて、いつもこんなふうにやるんです。ちょっとおどけているというか、お茶目です。
一人の天使がお告げをしたのに続いて、多くの天使の軍勢が出てきて賛美したと言うのであります。少人数の羊飼いのために大イベントが開かれたのですから、羊飼いたちはさらに驚いたことでしょう。しかも、天使の告げた内容はもっとビックリするようなものでした。すなわち「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶の中に寝かされている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへの証である」と天使は伝えていたからです。
【理屈に合わない話】
民全体に知らせたい喜びならば、たくさんの人が住んでいる首都エルサレムで発表したほうがよさそうです。羊飼いたちしかいない夜の野原でこのような大イベントが行われたというのは不可解です。
民全体に知らせたいという説明にもかかわらず、結局、イエスがお生まれになったことは、当時のユダヤの民衆に伝わっていません。
イエスが成長してから語り出した福音が、世界中の悩める人々を悩みから救い出すためにとても大切な教えであった、と理解されるようになったのは、ずいぶん後の話です。イエスがお生まれになった当時は、大切なでき事が起こったとは、ほとんどの人が気づいていなかったということなのです。イエスの誕生に誰も気づいていなかったという現実が先にあったのだと思います。
誰にも伝わらなかったのは、イエスの誕生を知らされたのは数名の羊飼いたちだけだったからだ、と言い訳しているようです。全ての民に与えられる大きな喜びの知らせという内容と辻褄が合わないのです。しかしこれが現実です。
羊飼いたちの名前も判りませんし、人数さえも判りません。つまり、当時の多くの人々にとっては、どうでもいいほど小さい出来事だったのです。そうであるならば、ルカはこの神話で、何を語ろうとしたのでしょう。
【今日の神話と教会礼拝の類似点】
今日は世界中の多くの教会で、子どもたちがこの神話を劇にして発表していることでしょう。このような劇は、物語の意味を勘違いさせることが多いので、ぼくたちは劇をしません。というよりも、子どもがいないので、劇なんかできないのが事実です。
しかし、今回は面白いことに気がつきました。それは、今日読んだこの神話が、ぼくたちの現状そのものだということです。すなわち、ぼくたちはいつも、小さい教会の、小さい礼拝式で、イエスがお伝えになった福音が、全ての人に与えられる大きい喜びであるとお伝えしています。全ての人に与えられた大きい喜びであるにもかかわらず、その言葉を聞いているのは数人だけなのです。ぼくたちは劇をしているわけではありませんけれども、この情景はまさしく、今日の神話の情景そのものです。その意味では、この礼拝そのものを通して、ぼくたちは今日の神話を実現しているのだと気づきました。
そうだとすれば、もちろん天使の役はぼくですね。そして、みなさんが羊飼いたちの役割をしています。ここで今おこっているのは、まるで二千年前のベツレヘム近郊の野原で起こった状況と一緒なのだ、とルカ福音書の記者は伝えているようです。きっと、ルカの時代にも、ぼくたちのような小さな教会があったのでしょう。
【ぼくたちは】
だれも気を止めないような小さな町の片隅で生まれたイエスが、今日、この時に世界中で話題になっていることなど、その時代の人は誰も考えることができなかったように、小さなところで始まっている事実を、理由が判らなくてもぼくたちは大切にすべきだということです。
ルカの話は、突拍子もない、辻褄のあわない神話に思えました。しかし、ぼくたちの現実に合わせて考えると、ピッタリ当てはまっている、と言えそうです。ルカが作った神話は、一回きりに起こった出来事ではなくて、ぼくたちの周りで起こり続けているようです。
まるで夜の野原で、数人に向かって、民全体に与えられる大きな喜びを伝えたとしても、意味ないじゃないか、と思えることを、ぼくたちは毎週しています。正直なところ、こんなことは何の役にも立たないだろうと思えます。しかし、二千年前のベツレヘム近くの野原でのイベントが、今日、キリスト教が伝えられている世界各地で話題になっていることを考えると、等閑(なおざり・いいかげん)にはできないことが判ります。
理由ははっきり判らなくても、自分たちにいまできることをしていけばいいのでしょう。成果があるのか、成果がいつ出るのか、ぼくたちには知り得ませんけれども、このような日々の営みを、今日読んだルカ福音書の神話は、そのまま肯定してくれているように思います。
二〇二二年の礼拝も今日が最後です。新しい年も、ぼくたちは小さな神話を紡ぐような礼拝を続けてまいりましょう。