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「正典聖書に支配されない」20240512

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「正典聖書に支配されない」20240512

聖書  マルコ 一章四十節~四十五節
 
 今日はマルコ福音書の先週の続きを読んでもらいました。

 重い皮膚病患者がイエスの元にひざまづいて「わたしが清くなるように、あなたが望んでくだされば、わたしは清くなれます」と言ったとあります。岩波版の聖書では「らい病人」と訳されているので、ことの重大さが伝わるはずです。

 重度の皮膚病だと言うのと、らい病というのでは、全く異なる対応が取られるはずです。らい病人は隔離されなければなりませんでした。ですから、この人がイエスの元に来て、カミングアウトすることは決死の覚悟だったのです。

 こんな場面にあなたが出会ったらどうしますか。一つはその場から一目散に離れる。あるいは遠巻きにして律法に従って病人を追い出す程度でしょう。律法に従えば、病人を社会から追い出すしかありません。律法に反して、病人に接したりすれば、その人も病人と同じ扱いを受けることになっていました。数年前に流行った伝染病に対する処遇と同じだと考えれば理解できるでしょう。

 そんな社会で、病人の訴えを聴いたイエスは、「深く哀れんだ」と書かれています。岩波版聖書では「腑(はらわた)がちぎれる思いに駆られた」としています。イエスは自分の安全や律法社会に抵触するかどうかを心配したんじゃなくて、まず病人自身の思いを感じ取ったのです。これが本来の人間感情です。

 イエスは手を伸ばし、その病人に触って、「もちろんだ、清くされよ」と言ったのです。すると、病人は清められたと書かれています。

 患部がどうなったかなど具体的には判らないので考えません。ただ、誰も関わってくれなかった病人はイエスに触られたことによって、人生が変わったはずです。イエスはその人に触ることによって、社会の一員に迎えたのです。病人に触ったイエスは、この人がらい病でないことを確信したのでしょう。すぐに祭司に見せて、治ったことを証明してもらうように指示しました。規定の伝染病であるか否かを判断するのは祭司だったからです。隔離されていた病人を社会復帰させた。このように物語が展開したきっかけは、イエスが律法に従わず、病人に触ったことです。

 

【律法の言葉に囚われないことが重要】

 まるで奇跡のような出来事は、イエスが律法に縛られていなかったから起きたのです。ただし、この事件を見た人は、イエスを律法違反者だと認識したはずです。どんな出来事も見る人によって違うということです。

 律法に従うことに夢中な人は、イエスのように病人に触れません。律法に囚われている人は、自由に行動できないのです。それはまるで悪霊に取り憑かれているようだと先週は言ったのです。

 イエスがあちこちの会堂に行って悪霊を追い出したという話を取り上げて、どこの礼拝堂にも悪霊に取り憑かれた人が居ると先週言いました。悪霊に取り憑かれた人ばかりがいる訳ではないだろうという反論を頂きました。もちろんそうです。しかし、悪や聖の霊は実在しません。霊を感じる人もいますが、ほとんどの人は感じません。悪や聖の霊が居ようが居まいが現実の生活には関係ないのです。実生活に関係するのは外部から影響を与える「人間」です。先週言いましたように、人の思考を停止させ自由を与えないのは悪霊ではなく人間の「教育」なのです。

 奴隷として育てられた人は、主人の元に居ることが安全なのだと徹底的に教えこまれるので、逃げることさえ考えられなくなります。そのように教え込むことは、人を力で押さえつけるよりも簡単なのです。

 アメリカは敗戦後の日本人に奴隷教育をおこないました。アメリカは占領政策によって日本人の精神を荒廃させ、会社や家族や教育制度までを解体し、アメリカに隷属する日本人を製造したのです。今や、多くの日本人はアメリカに隷属していることに疑問さえ持てないのです。これは陰謀論(いんぼうろん)じゃありません。アメリカの占領政策に記録されている事実です。

 

【教会はイエスの教えに対立している】

 「洗脳教育を振り払って自由に発想できる人になりましょう」とぼくは説教しつづけておりますが、そうなったのは、イエスというお方が、宗教国家で生活しながらも、宗教の束縛から自由になった人だからです。そんなイエスが殺されたものですから、弟子たちは宗教や国家の力を恐れて、抗うことができなくなったのでしょう。イエスこそ主だと告白しながら、世の権力を主としているとしか思えません。それはさて置き、イエスをキリスト(救い主)に仕立て上げてキリスト教という宗教を作った弟子たちの教会は、自らを権威づけることによって、ユダヤ教に凝り固まっている人を自由にしようとしたのかもしれません。しかし、権力を持ち始めると、多くの人を束縛する宗教の一つになってしまいました。教会は権力からの自由を教えたイエスの福音から離れています。

 人間イエスの教えを重視するのではなくて、人智を超えたキリスト(神の子)を拝む(おがむ)宗教になって、人の自由を認めなくなった教会は、人を宗教の束縛から自由にしようとしたイエスの福音に対立しているのです。

 ぼくが、イエスの教えを強調すればするほど、既存のキリスト教会の信仰告白に強く根ざした人から強い反発を受けるのは、イエスの福音と教会の福音が異なっている証拠です。

 キリスト教会も勢力をのばすために多くの信者を獲得し、教会教義を押し付けてきました。そのような教会の宣教は、イエスの意思に反しています。イエスの意思が絶対だとは言いません。ただ、人を束縛する宗教から解放する教えをイエスがなさったことは確かです。宗教であれ思想であれ、どんなものからであれ、束縛されて自由でない人にとって、イエスの教えは重要であるとぼくは考えているので、イエスの福音に重点をおいて伝えているだけです。

 一方、多くのキリスト教徒はイエスの教えよりも新約聖書の言葉に従うように教え込まれています。新約聖書に囚われていると言っても過言じゃありません。聖書は誤りなき神の言葉であるから聖書に従え、とキリスト教の教義は教えます。その教えをそのまま信じ込んでいる信者は、それこそ奴隷教育に染まっている状態です。なぜにそこまで聖書の権威を認めて従おうとするようになったのか、そのカラクリを説明しておきます。

 

【聖書の正典化にカラクリあり】

 新約聖書は一冊の本ではありません。二十七の文書を一つに纏めて正典という扱いにしたのは、四世紀の教会の会議です。正典(カノン、定規)という言葉は、これが生活の基準、手本、判断基準だという意味です。この基本に従って生活すれば、神様に喜んでもらえて、死後は天国に迎え入れられると教えているのです。

 キリスト教はユダヤ教から派生した宗教なので、旧約と新約を合わせて正典としています。しかし面白いことに、キリスト教会が正典として初めて認めたのは、新約聖書です。正典化の作業が進められたのはなぜかといいますと、どれが大切な文書であるか、歴史の浅い教会では、はっきりしていなかったからです。重要視されている文書が、各地方の教会によって異なっていたのでしょう。この混乱を治めるために、どの文書を認めるかを決定するための教会会議を開かねばならなかったのです。そうして、教会会議で決定した文書に、教会公認の文書、すなわち正典という権威を与えたのです。つまり、正典聖書は天から与えられたものではなく、教会が決めたものです。そうだとすれば、正典聖書の上に教会があったのです。その後、正典聖書の権威に沿って教会が組織強化されていったのです。教会と正典は互いに権威を与え合っているに過ぎません。聖書にも教会にも絶対的な権威はないという事実が解っていただければ幸いです。

 イエスの時代に今のような聖書はありませんでしたが、たとえあったとしても、イエスが聖書の言葉に従うことはしないでしょう。そのように、聖書を絶対的な権威ではないことを認めた上で聖書を読まなければならないのです。聖書は誤りなき神の言葉であるなどと教えるのは、正典聖書を決定した教会の傲慢です。

 

【法を絶対化してはならない】

 何かを絶対化したいという人間の気持ちは解ります。けれども、何ものも絶対化できるものはありません。しかし、このような間違いを人間は犯しやすいから、現代でも法律と現実が合わないという悲劇を招いているんです。

 たとえば、公害によって実際に苦しんでいる人がいても、「法律に照らし合わせれば、救うことができない」などと公的機関は平気で言うのです。人間が作った法律に不備があると被害者が考えれば、苦しんでいる被害者自身が、時間と費用を工面して、行政府を訴えなければならないんですから、苦しみに苦しみを増し加えられるようなものです。訴えられる行政府は、仕事として取り組むだけですから、自腹を切って訴える側(がわ)ほどに苦しくはないのです。そう言う理不尽が社会で罷(まか)り通っているのです。

 

【ぼくたちは】

 新約聖書であれ法律であれ、言葉によって人々を裁くのはイエスの生き方ではありません。法は人を守るためにあるという生き方をイエスはなさいました。

 聖書は神や、その奇跡を証明する本じゃありません。聖書を読んでできることはイエスの人間としての生き様(生活ぶり)を知ること程度です。イエスが語った福音を知るために聖書は重要な資料です。しかし絶対的なものではありません。どう読むか、どう解釈するか、結局は自分で答えを出すしかないからです。書かれた言葉に文字通り従っていればいいということではありません。正典聖書の言葉に支配されてはならないことをイエスの物語は教えているのです。正典聖書にも教会にも隷属する必要はないことをイエスの物語は教えているのです。

 ぼくたちは正典聖書にさえ支配されない生き方をイエスから学び続けていきましょう。

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