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「暇(ひま)が人を育てる」20240505

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「暇(ひま)が人を育てる」20240505

聖書 マルコ福音書 一章二十九節〜三十九節

 

【プレビアス(続き)】

 先週は、カファルナウムという街の会堂に居た男からイエスは悪霊を追い出した、という記事から話しました。

 マルコ福音書のこの物語を読んだときに、あなたは、違和感を覚えたならいいんですが、変な文章だと感じなかったならば、あなた自身が変なのかもしれない、と疑ってください。

 素直に読めば「穢れた霊に取り憑かれた男が会堂に居たと」書かれているのは異様です。聖霊に満たされた男たちが居たというなら判りますけれども、全く反対の情景が描かれているんですから、疑問を抱いて当然です。先週も言いましたように、イエスを会堂から追い出そうとした会堂の責任者こそが悪霊に取り憑かれた人たちの代表だと福音書の著者マルコは伝えているのです。

 

【姑の仮病(けびょう)は治った】

 カファルナウムの礼拝堂から悪霊を追い出したイエスは、お腹も減ったでしょうし、疲れた身体を休めたかったんでしょう。漁師のヤコブとヨハネを連れてシモン(ペトロ)とアンデレの家に行ったところ、シモンの姑(しゅうとめ)が熱を出して寝ていたんだそうです。本当の熱病じゃなかったと思いますよ。そもそも、漁師の仕事を放り出して、連(つる)んで、会堂で事件を引き起こした五人が家に来たら、誰でも熱を出します。先に家に入ったシモンが「これから、ぼくの他に四人が来るから、食事の用意頼みまっせ」と言ったとすれば、そんなことを喜ぶ姑はいません。「熱出して寝ているので無理です、と言って帰ってもらいなさい」とでも言ったんじゃないでしょうか。

 そこで「姑が熱を出して寝ているんです」とシモンはイエスに伝えたんですが、イエスはそんなことにはお構いなしで、姑が寝ていた家の奥にズカズカ入って行ったかと思うと、彼女の手を取って起こしたんです。すると彼女の熱は去り、彼女は一同をもてなした、なんて書いてあります。

 彼女は一瞬にしてイエスの魅力に取り憑かれて、仮病(けびょう)が治ったんでしょう。いわゆる奇跡なんかじゃないと思います。

 

【悪霊は会堂に居る】

 イエスとその仲間は、そのままシモンの家で休んでいたのですが、日が沈むと(つまり安息日が過ぎると)街の人々が、病人や悪霊に取り憑かれた者たちをぞくぞく連れて来たので、イエスはその対応に追われたようです。

 この後に続く記事には「イエスは悪霊に喋らせなかった、なぜなら悪霊はイエスを知っていたからである」と書かれています。「聖霊」じゃなくて、悪霊がイエスを知っていたというのは、面白い記事なのです。

 全員が疲れて寝てしまったようですが、イエスだけは早く目覚めて、人里離れた所まで行って祈っていたと書かれています。一人で静かに考える時間が欲しかったんでしょう。

 目覚めてイエスがいないことに気付いたシモンは探したようです。イエスを見つけたシモンが「みんなが探していますよ。何しているんですか」てなことをいいますと、イエスは「近くの町や村にも行って宣教する。そのためにぼくは出て来たんだから」と言ったのだそうです。「それからイエスは、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出した」と書かれています。つまり、ガリラヤ地方すべての会堂に悪霊が居たとマルコは書いているんです。どこの会堂にも、聖霊に満たされた人ではなくて、悪霊に取り憑かれた人々が居るなんて変な表現なのですが、それが現実だとマルコは伝えているのです。

 

【意外な所が悪霊に乗っ取られている】

 会堂、教会、お寺のような宗教組織だけではなくて、学校、金儲けに成功している会社、病院、銀行、役所、警察署、裁判所、国会、など民衆を教え導いて、民衆や国民が幸せになるようにアドバイスしたり援助する役目を帯びているはずの、偉そうな人々が居るありとあらゆる場所にこそ、悪霊に取り憑かれた人々がいるのだとこの物語は注意喚起しているのです。

 人々を虜(とりこ)にして、自由な考えを持たせないようにする人たちが、力のない人々が頼りにしている所に居るというのは、何とも恐ろしく、放っておけない状態です。

 伝統的な組織にも平安はないし、荒れ野にもお山にも、教育現場にも平安はない。そんな現状を体験して来たイエスは、自分が隷属して来た伝統的な宗教をも否定せざるを得なかったのです。

 見えざる神を騙(かた)る伝統的な宗教を振り払った時に、イエスは自分のすべきことを見い出したに違いありません。

 イエスが、自由になった喜びを携えて、あちこちの会堂から悪霊を追い出して、人々がおおらかに生活できるようにしよう、と考えたのは当然のことです。自分と同じような苦悩を強(し)いられて来た人々を、庶民を隷属させようとする古い教えから、解放するためにイエスは独自の行動に出たのです。これがイエスの福音宣教です。

 

【じっくり考える時間が必要】

 人々を隷属させる教えは、人がじっくり考えることを妨げます。勉強の場でも社会組織からも、支配者が提供する教えを学ばされ、テレビやメディアからは次々に嘘の情報が流され、さらに、エンターテインメントやゲームによって、人から考える時間を奪っています。現代人は情報過多に追いやられ、考える時間を奪われています。

 イエスは、古くからある伝統的な教えを捨てさせ、自分の新しい教えを吹き込もうとしたのではありません。そうではなく、公的な教え(洗脳)に囚われて自由に考えることができなくなっている人々に、上から与えられたものを、そのまま信じ込むのではなくて、それらを一度置いて、自分でじっくり考えるように仕向けたかったのでしょう。教えられるままを信じ、命じられるままに働く隷属状態に置かれたままでは本当の喜びを味わえないことを知らせ、自分で考える必要があることを教えたのです。これがイエスの福音宣教です。

 「悪霊」というのは目に見えない悪さをする霊などではなく、人を雁字搦め(がんじがらめ)にし隷属状態にする「教え」なのです。

 

【ぼくたちは】

 そこから解放されるためには、先ずぼくたちを閉じ込めているカリキュラム(教育課程、教育計画)から逃れることです。これならぼくたちにできます。そして一人で考える時間(暇・ひま)を作ることです。人は暇で育ちますが、多忙は人を育てません。ぼくたちは暇をもっと大切にするべきなのです。

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