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「神話の神を捨てる」20240922
「神話の神を捨てる」20240922
数千年以上も前に書かれた文章が残っている聖書を読みますと、昔から悪い人が居たことが判ります。時代が変わっても人間社会は変わりません。
ノアの方舟(はこぶね・長方形の船)という言葉を知っている人は多いでしょうが内容を知っている人は少ないでしょう。今日は、なぜノアが方舟を造ることになったかという方舟の前段階の話をします。ノアが方舟を作ることになったのは大洪水を起こすことを神がノアに知らせたからです。
神話の神は突然現れて、宇宙を創造し、地上に人を創造したのだと勝手に一方的に威圧的に宣言したのだと言ってきました。全てを創造した神話の神が、今度は地上の動植物を一掃してしまうことにしたというお話です。
神話の神が地上の生物を一掃してしまおうと思った理由は、人の悪が増大し、人が悪いことばかり考えついて計画するからだそうです。人間社会の諸々(もろもろ)の事象を見た神は、「地上に人を造ったことを後悔した」と書かれています。
【神話の神はわがまま】
こんな神話は昔の誰かが作った筋書きだと判っている人には問題ありません。けれども、聖書の言葉は全て真実であると思って読んでいる人にとってはまことに衝撃的な筋書きであります。と言うのも、全知全能で誤りなき神が後悔したなんて矛盾しているからです。
人が作った社会が気に入らないからといって、全部滅ぼすなんて、まるで隣の国を滅ぼそうと考えている独裁者と同じ暴君です。
ぼくたちは、こんなことを一方的に言われる筋合いはありません。
神話の神は自分が造った社会の出来が気に入らなくなったからという理由で、まさにちゃぶ台をひっくり返すというか、ゲームの途中でテーブルごとひっくり返すことなど許されません。熱心なクリスチャンの多くは、こんなメチャクチャな神話の神を本気で信じているのでしょうか。そのことがぼくには信じられません。ちゃぶ台返しする神話の神に自分たちの生活を委ねることなんかぼくにはできません。
【神話の著者の意図】
神話の著者たちが、神話の神をこれほどわがままな支配者として描き出したのは、これほど身勝手な神話の神を礼拝の対象にしてはいけないと気づかせるためです。それは同時に、こんな神から選ばれた国の支配者、具体的に言えば「ソロモン王のような支配者に、自分たちが生活する国を勝手気ままにさせてはいけない」というメッセージだと考えています。
【優柔不断な神話の神】
神話の神は、自分で決めた事を簡単にひっくり返します。本当に優柔不断なのです。さらに、全てを滅ぼし尽くすと言った尻から、ただし、ノアは無垢(むく)な人であったので、ノアだけは生かしておくと言った自分の言葉に釣られて、ノアの家族と全ての動物の中から自分の目に叶うオスとメスをつがいで残しておくことにしたのです。
しかし、神話の神のこの計画も失敗だったと言えます。なぜならば、今も悪事を働く人間が横行しているのですから、結果的に大洪水前と同じ状態に戻っているからです。このような状態を知らされますと、神話の神は全知全能じゃない、信ずべき対象じゃないと理解すべきなのです。
ここまでやっても神話の神の思い通りにはならなかったために、水で失敗したから今度は火で一掃してやるって言っているのです。
面白いことに、その際にも、相変わらず、自分に従順な者を正しいとして、救い上げると言っているのは、やっぱり優柔不断なのです。こんなことでは先が思いやられます。神話の神が気に入った者ばかりを連れて行った天国でも悪事を働く者たちが増えそうな気がします。
【神話の神と福音のイエス】
神話の神は、結局のところ、自分の気に入った者を正しい者としているだけです。そんな神話の神は、愛を説いたイエスとぜんぜん違うと感じます。「洪水を起こした神とイエスには、どんな関わりがあるのでしょうか」とチャットGPTに尋ねてみたところ、「人類への裁きと警告とノアの家族の救いが語られている」とか、イエスは自分の再臨を「人の子が来るのはノアの時と同じだ(マタイ二十四章三十七節)と述べている」と教えてくれました。確かに、聖書を平板化して、どの記事もつながっていると理解すればチャットGPTのような解釈もできます。また、世の終わりに際して羊と山羊(やぎ)を分ける物語(マタイ二十五章三十一節〜四十六節)に、称賛を受ける者と罰を受ける者についての言及があるのも確かです。しかし、ペトロが「私に対して罪を犯した兄弟を、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねた際に、「七回までではなく、七の七十倍までも赦せ」(マタイ十八章二十一節、二十二節)と答えたイエスの視点は裁きの視点と全く異なっていると思います。
世の終わりの裁きの神学は旧約聖書の時代から語り続けられている概念です。神話を書かされた著者たちは、批判を込めた神話の神の概念を、そのまま信じ込む人々がいるとは思っていなかったのではないでしょうか。天地を創造したと宣言し、それらを破壊する勝手気ままな神話の神など拒否すべきだと著者たちは伝えたかったはずです。ところが、神話の神による裁きは、新約聖書の中にも受け継がれてしまったのです。正しい者と悪とが、勝手な支配者によって適当に区別されてはいけないのです。イエスの福音は、身勝手な神を批判したのです。偉そうに、七回赦せば十分でしょう、と言ったペトロが正しいわけありません。その七十倍赦せと言ったイエスは、考え方を根本的に変えるように促しているのです。このように教えたイエスが、最後は永遠の火で焼かれるぞ、などと言うはずありません。キリスト教もユダヤ教の終末思想を受け継いでしまいましたが、愛や赦しを宣言したイエスは、正悪二元論の結末のような終末論を認めていません。
【ぼくたちは】
神話を書かされた著者たちが批判を込めて神話の神を描いたのは、後悔するような優柔不断な自己主張ばかりの駄々っ子のような神話の神なんか認めていないという学者たちの自己主張だと思います。独善的で自己主張ばかりして、人を罰する神話の神をイエスも認めませんでした。こんな神話の神は捨ててしまいましょう。同様に、現実社会に居る神話の神に似た支配者も捨ててしまいましょう。なぜならそれが、ぼくたち民衆が自分で幸せを作り出すために必要だからです。