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「イエスは病気を治せない」20240623

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「イエスは病気を治せない」20240623

聖書 マルコ福音書 三章 七節〜十二節

 

 七十歳を過ぎますと、昔のように身体が動かないことを実感します。何事にも無駄な力を使わないと言うと聞こえは良いのですけれども、事実は力が無いというだけです。イエスは若くして殺されていますので、最近多くなった高齢者のお手本にはなりません。残念なことです。

 教会で聞いたことのない話ですけれども、イエスは若くて血気盛んな律法主義の熱心なユダヤ教徒だったのです。しかし、どんなに律法に忠実に従おうとしても不可能であることを体験して、伝統的な教えの勘違いに気付いたのです。だから、熱心な信者たちが集まるユダヤ教の礼拝堂(シナゴーグ)に行って、自分の気付きを伝えました。ところが、伝統的慣習に育てられたユダヤ教徒たちは、若者の言葉に耳を傾けませんでしたし、利権に絡んだ人は、イエスを危険視しただけでした。

 論理的に説明したくらいでは、何百年もの伝統に支えられた信仰心を変えることなどできません。

 三十歳そこそこの若造が話すことを真剣に受け止めてくれる名の通った年輩の学者なんてなかなか居るもんじゃありません。ということで、熱心な信者の考え方を変えようとしたイエスの活動は、失敗したと言えそうです。

 

【イエスに反応した人々】

 ところが、イエスの説法に反応した人々がいました。面白いことに、それは、イエスがターゲットにした人々ではなくて、礼拝堂の外に居た人たちです。イエスの言葉は、礼拝堂の外に居た人にも、何らかの仕方で届いたのでしょう。

 イエスが礼拝堂を出るのを待っていた人々が集まってきました。イエスの説法(福音宣教)は、熱心な信者ではなくて、信者の枠に嵌(はま)り切らない民衆、つまり、宗教社会から疎外されていた人々の心に届いていたようです。

 今日の物語の場所設定は、野外です。民衆は野外でイエスを待っていました。この事実がイエスに宣教の場を変えさせたのです。

 さまざまな地方から人々が集まったと書かれていますけれども誇張でしょう。とにかく、イエスの噂を聴いた多くの群衆が集まったのです。

 イエスが多くの病人を癒したというのを聞いて、病気に悩む人々が、イエスに触ろうとしてイエスに押し寄せたと書かれている通りです。

 

【小舟で逃げた】

 人が集まらない教会からすれば、群衆が押し寄せたというのは喜ばしいことのように思えるのですが、イエスは小舟に乗って湖に出たのです。群衆を避けて、群衆から離れたんです。初めて読んだ時から違和感がありました。というのも、触るだけで病気が治るのならば、入れ替わり立ち代わり、触らせてあげればいいのになあって思ったからです。なぜ触らせないのだろう。ケチ臭いなあって思いました。

 イエスは舞台を小舟の上に変更したのかとも思いましたが、単にそうでもなさそうです。

 

【触らせなかった訳】

 忙しいわけでもないし、病人に力を吸い取られる訳でもありません。そこで、イエスは群衆に触られたくなかったのだと気付きました。

 触れれば病気が治ると思って、イエスに触りたい病人ばかりが集まってきたのですが、イエスはそういう仕事をしたくて人前に出てきたのではなかったのです。何度も話していますように、律法に縛られて自由に生活できない人を律法から解放したいというのがイエスの願いだったのです。そうだとすれば、奇跡がイエスの宣教を見えなくさせていたということです。

 イエスは奇跡のようなパフォーマンスを何度も見せましたけれども、それはパフォーマンスを通して人々を惹きつけて、イエスの律法解釈を視覚的に説明するためだったのだとぼくは伝えてきました。イエスは自らの論理的な福音を理解してほしかったんですが、多くの人は奇跡のようなイエスのパフォーマンスに目を奪われてしまったのです。パフォーマンスの効き目が強すぎて、病気を治す力があるという噂だけが広まった結果、どうしてもイエスに触りたい病人が押し迫ったのでしょう。多くの人は、イエスの言葉に耳を傾けるどころではなかったようです。

 癒しの噂がここまで民衆に浸透するとは、イエスも予想外だったんじゃないでしょうか。そこでイエスは病人たちから距離を開けるために、小舟に乗ってその場から離れたのです。イエスの望みでないことが起こっていたから、イエスは病人に触られたくなかったということです。

 

【民衆の期待とイエスのズレ】

 それにしても、どうしてイエスは民衆を避けたのかという問いが残ります。イエスがみんなと距離を置いた理由は、触っても、病気が治らないことを一番よく知っていたのはイエス自身だったからではないでしょうか。

 こんな説教をするのは初めてですが、かなり説得力があると思います。

 イエスは、偽善者ではなかったから、途方もない期待を描く人々から逃れたのです。

 イエスは、奇跡を起こす力のあるキリスト(救い主)ではなくて、律法の根本精神を伝えることに目覚めた熱心で誠実なユダヤ教徒だったのです。

 こんな状態のイエスを見た穢れた霊どもがイエスにひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ、とありますけれども、言葉通りに受け取ることはできません。穢れた霊は伝統的宗教の指導者たちでしょう。小舟に乗って湖上へと逃げ出したイエスに彼らはやじを飛ばしたということでしょう。

 イエスは奇跡を起こす超能力者でなかったことは判っていただけたでしょうか。イエスは、スーパーマンでも霊媒師でも詐欺師でもマジシャンでもなくて、生真面目なユダヤ教徒だったのです。

 

【ぼくたちは】

 裁く神などいないという独自の悟りをイエスは宣教しましたけれども、世を救う神の子キリストでなかったことは確かです。イエスの殺害後に彼をキリストにしたのは、後の教会(エクレシア・召し出された集会)という組織を作り上げた人物でしょう。

 イエスが悟った素朴な教えに、教会がゴテゴテと飾り付けをしたために、素朴なイエスの福音が見えなくなってしまったのだと思います。ぼくは、余計な飾りを外して、ぼくたちが近づき得る人間イエスを見たいのです。なぜなら人間イエスが伝えた素朴な福音こそが全ての人を救う可能性を秘めていると思うからです。だからぼくは、人間イエスが伝えた素朴な福音を皆さんにも知らせたいのです。

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