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「法律は庶民を守るために作れ」20240609
「法律は庶民を守るために作れ」20240609
聖書 マルコ福音書 二章 二十三節〜二十八節
我が国の国会では、法律の修正案で揉め事が続いておりますが、法律の理念、つまり法律の基本的な考え方を勘違いしている人たちが議論しているので、聞いているだけで腹が立ちます。
元来、法律というものは、下層階級の庶民を守るために定められたのです。日本の権力者たちが自分を守る法律を作っている姿は、法律の理念を無視しているとしか言いようがありません。
【十戒は弱者を守る法律】
古い法律として有名なのはモーセの十戒と言われるものです。十戒は神様のために神様がお決めになった律法であるかのように思っている人がいますけれども勘違いです。なぜなら、民に仕えてもらわなければ死んじゃうとか、困っちゃう神様なんていないのですから、神を守る法律なんか必要ありません。
ユダヤ教が大切にしている十戒は、本来、弱い立場の人を守るために作られた法律で、そのような弱者保護の法律は古代からあったのです。
今日のイエスの逸話(いつわ・エピソード)に出てくる「安息日」規定は、労働者や奴隷、家畜に至るまで、一週間に一日は完全に休養させなければならない、と主人を戒める法律なのです。
なせこのような法律を作る必要があったのかといえば、労働者をこき使う主人が多かったからです。現代でも同じことが行われているから判るでしょう。しかし、このような法律を作っても守らない人が多いのです。だから、絶対に守らなければならない法律であることを強調するために神からの命令であるという形式が採られたのだと思います。神からの命令だということにすれば誰も逆らえないと思ったのでしょう。けれども、みだりに神を持ち出したために、法律の精神を忘れ、文字面だけにこだわる人々が出てきました。
【モーセの十戒】
モーセが山に登って神様から直接与えられたことになっている十戒について、内容まで知っている人は少ないと思いますので、一応、出エジプト記二十章から簡単に紹介しておきます。
「私の他に神があってはならない。」(何者をも神にしてはならない。)「どんな像(偶像)も作ってはならない。」「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」「安息日を心に留め聖別せよ。」(六日間は働いて、七日目は主の安息日であるからどんな仕事もしてはならない。)「あなたの父母を敬え。」「殺してはならない。」「姦淫(かんいん)してはならない。」「盗んではならない。」「隣人に関して偽証してはならない。」「隣人の家を欲してはならない。」(隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。)
いくつか説明文も紹介しましたけれども、ざっと、こんな内容です。安息日の項については特に詳しく書かれております。さらに、出エジプト記よりも後に書かれたと思われる申命記の五章にも十戒が書かれているのですが、その安息日の項では、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷も休むことができる」と説明されています。
申命記の著者が十戒を紹介した時には、このように加筆しなければならなかった背景には、雇用主が自分だけ安息して、使用人を休ませていなかったという現実があったのだと理解できます。
簡単な十の戒めが、時代が進むに連れて言葉の数を増やさなければならなかったのは、法律を守らない者たちが増えていた証拠です。元を正せば十戒で十分だったのです。もっと短くまとめれば、隣人を愛しなさい程度でいいはずです。
とにかく、週に一日は使用人を休ませろ。それくらいは大切に扱え。使用人を休ませるために、雇用主も休めという命令にしてあるのです。つまり、下層階級に優しい法律なのです。
これに勝手な注釈をつけて、何も仕事をしてはならないことを強調したり、仕事とは何かを細かく規定してしまうから、庶民を助けるどころか返って自由を奪う法律運用になっていたのです。
ユダヤの安息日は金曜日の陽の入りから土曜日の陽の入りまでなので、キリスト教徒が守っている日曜日の礼拝とは関係ありません。ところが、仕事を休んででも日曜日の礼拝を守らなければならないと教える教会も実在するのは、ユダヤ教の安息日規定と混同しているからでしょう。
なんでもかんでも結びつけて、論理がぐちゃぐちゃになっているのは明らかです。
一週間に一日は休め、と命じている安息日規定は、それが、みんなが健康で長く働き続ける秘訣であるということを、長い歴史の中で民族が獲得した知恵なのだと思います。それ以外に禁止事項を付け加えたりする教えは、安息日規程の本来の精神に逆行していることは明白です。
【イエスは法律の精神に則り人を大切にした】
今日の話に登場するファリサイ派の人々は、律法違反者を見つけるために心血を注いでいたようです。歩きながら麦の穂を摘んだ弟子たちを見たファリサイ派の人は、弟子たちは麦刈りの仕事をして安息日規定に違反した、と言いがかりをつけたのです。このような生き方は律法の言葉に囚われている生き方です。
しかし、イエスは律法の言葉よりも、律法の本来の精神を大切にしました。すなわち、人々の生活を守ることに心血を注いだのです。
ファリサイ派の非難に対してイエスは、ダビデと供の者が空腹だった時に、祭司しか食べることを許されていないお供えのパンのお下がりを、食べたじゃないかと反論しました。(ちなみに故事に登場する人物は正確には「祭司アヒメレク」)だから空腹の弟子たちが麦の穂を摘んで食べたところで、律法の精神に違反しないと諭したのです。
【ぼくたちは】
法律の字面を守る国家は法治国家ではありません。現在の日本のように権力者が自分の都合に合わせて法律を作ったり解釈する国は、法の精神に反して弱者いじめをするので、民主的な法治国家とは言えません。弱者を守るために法律が作られ運用される国の建設をぼくたちは目指すべきです。法律の字面よりも、法の精神を守って、人を大切にするのが、ぼくたちが求める本来の法治国家の姿です。権力者のためにも神のためにも法律は不要です。弱者を守る法律を作ることができるのは人間力豊かな人です。国会議員にもそんな人を選ばなければなりません。これからの教会運営においてもぼくたちは、神の名を利用せず、弱者を大切にする精神で決め事をし、その精神に則って運営して行くことにいたしましょう。