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「救う? 見捨てる?」20240616
「救う? 見捨てる?」20240616
聖書 マルコ福音書 三章 一節〜六節
イエスは独自の活動を始めた頃はユダヤ教の礼拝堂、すなわち会堂(シナゴーグ)に出かけて自分の考えを伝えました。なぜそのようなことをしたのでしょう。まず考えられるのは、シナゴーグには熱心なユダヤ教徒が集まっていたからです。次に考えられる理由は、宗教教育によって心に律法が染み込んでいる熱心な信者たちを、律法の縛りから解放するのがイエスの目的であったからだと思います。それにしても、なぜ伝統的な信仰心から信者たちを離れさせようとしたのでしょうか。その答えは、ぼくが常々言っていること、つまりイエス自身の経験に答えがあるはずです。
イエスはイスラエルの民です。ユダヤ人として育てられたのです。若いころから生真面目な性格であったので、生真面目な信者であったのだろうと推測しています。若い頃、生真面目な性格であったぼくは、同類としてそう感じます。
イエスは青年になってから、荒れ野で禁欲生活していた洗礼者ヨハネの元に行って洗礼を授けてもらったことが福音書に記録されているほど生真面目だったのです。そんなことをしない若者が多い中で、バプテスト・ヨハネから洗礼を受けたことだけでも、イエスの生真面目さが読み取れます。荒れ野でサタンから誘惑を受けたとありますのは、禁欲主義のバプテスト・ヨハネの元で四十日間の断食修行をしたということでしょう。そんな生活をするほどに、イエス自身は律法の言葉に縛られて、窮屈(きゅうくつ)な生活をしていたのです。
しかし、修行を終えたはずのイエスは、荒れ野を出て町に入っております。荒れ野に残って修行僧のような禁欲生活を続けませんでした。返って、街の中に溶け込んでいったのです。
友人を作り、友人宅に上がり込んで食事を楽しみ、当時の社会では罪人と呼ばれていた人々の仲間になって飲んだり食ったりしているのですから、修行僧のような生活を捨てたことは確かです。
禁欲生活を捨てたからといっても、イエスは挫折した修行僧ではありません。町に戻ったイエスは独自のユダヤ教批判というか律法主義批判をしていることから解る通り、禁欲や修行では救われないことを悟ったに違いありません。伝統的な宗教の教えにどれほど積極的に邁進しても、心の平安には至れないことを知ったイエスは、伝統的教えの欺瞞に気づいたのでしょう。文字通りに律法を教えて人の生活を窮屈にする宗教家に嫌気がさしたイエスは、律法の伝統的な解釈を批判するようになったのでしょう。そのことが自分を解放してくれたという体験を、律法によって生活を縛られている人々に発信して、ユダヤ教という宗教から人々を解放する説法をするようになった。
律法学者たちに教育された熱心なユダヤ教徒たちを、律法の囚われから自由にするためにイエスは独自の説法をはじめたことがイエスの福音宣教だと言えます。だから、イエスは、熱心なユダヤ教徒をターゲットに宣教しました。イエスが活動を始めた初期に安息日の会堂に行ったのはそのためです。
【安息日の癒し】
この日もイエスは安息日の会堂に出向きました。そこにいた手の萎(な)えた人を、イエスは人々の中心へと呼び出しました。手の萎えた人というのは、手に障害があった人のことです。
当時の安息日規定の解釈によれば、安息日に癒しの行為をしてはならないことになっていたようです。癒しは医者の仕事だったからでしょう。
たとえそうであっても、イエスならそんな慣習にお構いなく、この男を癒すだろうと宗教の専門家たちは予想していたようです。律法違反の現場を抑えることができると楽しみにしていた専門家たちに、イエスはまず問いかけました。
「安息日に許可されるのは、救うことか殺すことか」とイエスは問うたのです。問いかけられた人々は面食らったでしょうね。突然に矛先が自分たちに向けられたんですからね。しかもイエスの問いは律法の根源(精神的な意味)を問うものだったからです。十戒の中に「殺すな」と書かれていますが「救うな」とは書かれていません。基本に戻れば「救う」という行為が律法に抵触するはずないことは誰にも判ります。
イエスに律法違反の罪を被せて殺したかった人々は、イエスの問いかけに対して何も言えなくなりました。
【奇跡じゃなく問いに目を向けろ】
このようにして人々の注目を集めてからイエスは、その人の萎えた手を癒して自由に使えるようにしたということです。このような聖書物語を読んだ人の多くは、イエスが教えた律法解釈の重要性よりも、イエスが奇跡を起こしたということに目を奪われるようです。しかし、これが奇跡である必要などありません。このような奇跡が事実ならば、もっと多くの人がイエスに従ったはずです。
イエスに問い詰められたファリサイ派とヘロデ派の人々は、利権を守るために、安息日であるにもかかわらず、イエスを殺す相談をしたと書かれています。
このような危険をイエスは承知の上で、宗教家たちに問いを投げかけました。それは問題を抱えている人を黙って見過ごせなかったからです。
この男の手が本当に癒やされたのかどうか判りません。この奇跡物語がイエスの演出したパフォーマンスであったとしても、それは宗教家たちに視覚的に問いかける方法だったと解釈すれば何の問題もありません。大切なのは律法の根本精神の理解に関わるイエスの問いかけです。
癒し(いやし)の奇跡に目を奪われてはなりません。イエスの問いかけを真剣に受け止めさせるための材料に過ぎないからです。イエスの結論は明白です。「安息日に癒すことは許可されている」ことをイエスは示しました。これは伝統的な教えに逆らうことですから、専門家たちはイエスを殺すことに決めただけのことです。彼らは利権を守るためならば、安息日に人を殺せる人々です。そんな利権者が多いことは今も同じです。
【ぼくたちは】
与えられた境遇から簡単に逃げ出すことができない人、自分ではどうすることもできない人がいれば、安息日であっても手を差し伸べる、見殺しにはしない、というのがイエスの生き方です。
現在のユダヤでは、安息日であっても救急病院は活動できるそうです。当たり前のことです。
イエスの問いかけは、簡単に考えれば答えられるものなのです。神様や律法や伝統的慣習に固執(こしつ)せずに、人間の常識で考えれば判断できることなのです。キリスト教の伝統に対しても同じ姿勢を求められるはずです。ぼくたちは、人間としての常識的な判断を大切にしつつ、自分たちの進路を決めていく者となりましょう。