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「血縁と福音の壁」20240721
「血縁と福音の壁」20240721
聖書 マルコ福音書 三章三十一節〜三十五節
【聖書本文】
「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
今日のこの言葉は少し前のマルコによる福音書三章二十一節〜二十二節の言葉、すなわち、『身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」と言っていた。』という記事と対になっています。
【イエスは悪霊憑きと非難された】
伝統的なユダヤの律法解釈に対して、イエスは独自の律法解釈を、他人の名に頼らずに語り出したのです。庶民からは、まるで自分自身が権威者のように語っていると見えたようです。一般人からはたとえそう見えたとしても、当時の熱心なユダヤ教徒や専門家、学者たちからは、まるで、真面目な信者を誑(たぶら)かす悪霊憑き(あくれいつき)のように見えたようです。
しかし、伝統に依拠しないイエスの理論的な律法解釈に太刀打ちできなかった律法学者たちは、悪霊の頭に従って活動していると非難することしかできなかったのでしょう。理解できない事に出会った人が悪霊や聖霊を持ち出すのです。聖霊に満たされたとか言って訳のわからない話をすることが流行った時代もありました。
【庶民はイエスを受け入れた】
イエスの活動は当初は、熱心なユダヤ教信者が集まるシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)で始められましたが、後ろ盾のないイエスを、伝統的生活に熱心なユダヤ教徒が受け入れなかったのは当然でしょう。しかし事はそれでは収まりませんでした。イエスの話に共感した人々がシナゴーグの外にいたのです。すなわち、シナゴーグには行けない人々、伝統的な宗教者から軽蔑されていた人々はシナゴーグを出たイエスの元に集まって教えを聞こうとしました。もちろん教えを聴くだけではなくて、奇跡を期待していたのも明らかです。いずれにせよ、伝統的宗教が抱えきれない人々がイエスを受け入れたのです。イエス自身もこのような出来事を通して初めて宗教から弾(はじ)き出された民衆が自分の福音を求めていることに気づいたのだと思います。イエスといえども、初めから全てを理解していなかったということです。
シナゴーグを出てガリラヤ湖のほとりを歩んでおられたイエスの元に集まった人々から逃げるように小船で水面(みなも)から群衆にお話しなさった場面も紹介しました。
【賛同者の家で】
今日の場面ではイエスは誰かの家で自分の教えをなさったようです。家というのは小さな自分の家ではなくてイエスに賛同する者の家に招かれたのだと容易に想像できます。その場にまたもやイエスの家族が登場いたします。
息子が世間様から悪霊憑きだと非難されていたことを気にした母マリア様と兄弟姉妹がイエスを連れて戻ろうとしたのでした。
【ルカは立派なマリア像を描く】
ルカ福音書ではイエスを宿したマリアは天使ガブリエルからイエスが聖なる者と呼ばれ、神の子と称せられると告げられた時に、その事を理解できなくてもお告げを受け入れたことになっております。そんなマリアが、家族を連れてイエスを取り抑えにきたというのでは辻褄が合いません。
家族の来場を知らされたイエスは、「私の母、私の兄弟たちって誰のことか」と訊き返したのです。家族の顔もわからなくなるほどボケてしまった訳じゃありません。わざと、トボケたのです。家族に冷た過ぎると感じますが、イエスは全く異なった家族理解を示します。イエスは、周りを取り囲んでいる者たちを見渡して、ここにいるのが母であり兄弟であり姉妹なのだと言ったのです。
ヨーロッパ周りでキリスト教が伝えられた日本では、勘違いしている人が多いのですが、ユダヤ教は地政学的にはアジアの宗教です。血の繋がりが大切にされ、強調されていた社会において、血縁を度外視した家族の繋がりをイエスは教えたのだと、マルコ福音書の著者は伝えているのです。
イエスを取り囲んでいた人々、すなわち社会で軽蔑されていた人々は、君たちこそ家族だとイエスから言われたことに驚いたことでしょう。
マタイ福音書は血の繋がりの大切さを示すかのように、先祖の名前を綴っています。しかしマタイですら、血縁に縛られている教会に、批判を持っていたのかもしれません。というのは、西野バプテスト教会の人たちにはよく知られているとおり、連綿と続いているダビデの父系の血筋はマリアを妻にしたヨセフで途切れているからです。マリアが聖霊によってイエスを孕んだのならば、ヨセフの子ではないので、ダビデ王の父系に繋がっていません。つまり、ヨセフに繋がるダビデの父系の名前を、マタイは書き連ねているにもかかわらず、実はイエスがダビデの父系と関係ないことを示していると考えることもできるのです。
現実の初代教会は、イエスの血筋を大切にしたようです。イエスの実母であったが故に、マリアは祈りの対象に祀り上げられ、マリアから生まれたイエスの兄弟ヤコブは、使徒でなかったにもかかわらず初代教会の頭に押し上げられていました。
すなわち、イエスの血族が、イエス亡き後に設立された教会の重鎮になっていたのです。
そんな教会で育った福音書記者マルコは、このような教会運営に疑問を持っていたのでしょう。生前のイエスが活動していた頃のイエスの身内はイエスを全く理解していない人々だったと暴露(ばくろ)するためにマルコはこの物語を書いたように思います。
【ぼくたちは】
福音は血縁でつなぐものでないにもかかわらず、血縁のしがらみを大切にしてきたから、イエスの福音の真髄から外れた教会を誕生させたのだとマルコは批判しているようです。世の中の力関係の常識で組織運営してきた教会はイエスの福音を見失っていると思います。教会を作って来た多くのしがらみを捨てて、イエスがお伝えになった福音の真髄に戻るようにぼくは勧めているのです。