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「人が人を赦します」20240519

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「人が人を赦します」20240519

聖書 マルコ福音書 二章 一節~十二節
 
 今日もマルコ福音書の続きを話します。前の話を聞いておられなくても、今日の話だけで満足してもらえるように、これが大事だという福音の中心を話すつもりです。
 
【福音は律法違反から始まった】

 ユダヤの律法が「触れてはならない」と規定していた病人(らい病人)に、イエスは手を伸ばして触った事件を、先週話しました。この行為は完全に律法違反です。しかし、イエスが律法に反して触ったことによって、この男がらい病でないことが確認されたのです。イエスが律法違反した結果、この男は、病気が治った者とされ、社会に復帰できたのです。ですから、この事件はイエスが病気を治した奇跡を教えるものではありません。イエスが律法を破ったことが奇跡とも思えるようなことを起こしたということを伝えているのです。

 イエスが律法に従順であったから奇跡を起こすことができたのでないことは確かです。マルコ福音書の著者は、イエスの律法違反が病人の福音になったことを強調したかっただけだとぼくは考えております。

 

【イエスは優れた演出家】

 さて、今日の話も、病人が癒やされた奇跡話のように見えますけれども、そうではないことをお伝えいたします。

 今日の場面では、多くの人に囲まれているイエスの前に、病人(中風の男)が、ベッドに寝かされたまま、ロープで吊り下ろされたというのです。

 屋根を剥がして病人を寝床のまま吊り下ろすという、大胆なパフォーマンスを見た人々は皆、呆気(あっけ)にとられたでしょう。たぶんこれは世界初のワイアーアクションです。このまま映像にできるほどの面白い演出です。

 イエスが「いやいや、あっぱれ、あっぱれ」と手を叩いて喜んだ情景をぼくは想像しちゃいます。

 イエスは、吊り下ろした男たちの信仰を見て、つまり、男たちがイエスに寄せる期待を感じ取って、中部の男に向かって、「子よ、君の罪は赦される」と宣言した、と書かれています。

 いやいや、四人の男たちのパフォーマンスもぶっ飛んでいたのですが、イエスが語ったこの言葉はもっとぶっ飛んでいました。

 

【律法学者の反応】

 見ていた律法の専門家たちが感じたように、人間が勝手に、罪の赦しを宣言するなんて、当時の社会ではあり得ないことでした。そんなことは百も承知の上で、イエスは敢(あ)えて、意図的にこの病人に罪の赦しを宣言したのです。

 イエスの暴挙を、律法の専門家たちが黙認できるはずありません。

 当時の宗教社会では病人も身体障害者も、神から罰を受けている者たちだと理解されていたのですから、神が罰を与えたほどの罪人を人が勝手に赦すことなどできない、と律法の専門家たちが考えたのも無理ありません。イエスに対する敵対心は、もの言わずとも、律法学者たちの目に現れていたはずです。しかしそんなことで弱腰になるイエスではございません。

 イエスは彼らに挑戦しました。「君の罪は赦される」と言うのと、「寝床を担いで歩け」と言うのとどちらが簡単だと思うか、とイエスは彼らに問いかけました。

 赦しを宣言することと、身体を癒すこととでは、癒しの方が難しいようにぼくらには感じられます。けれども、神第一の宗教社会では、神の主権に人間が介入することなどありえないのですから、赦しを宣言することこそが難しいはずです。とにかく難解な問いです。そんな問いを投げかけながら、イエスは、敢えて、「人の子が、罪を赦す権能を持っていることを知らせよう」と付け加えてから中風の男に、「起きよ。寝床を担いで家に帰れ」と言ったのです。すると男は言われるがままに、自分の寝床を担いで皆の前から出ていったそうです。

 罪を赦すことと病気を癒すことをイエスは同時的に表現して見せたのでしょう。

 

【奇跡なんて見ないで良い】

 前にも言ったことがあるのですが、こんな出来事は多くの人が期待する奇跡ではありません。奇跡なんてものは重要ではないのです。

 たとえば、病気を治すことができる人が、奇跡的に誰かの病気を治したとしても、ぼくたちの病気が治らないのならば、関係ありません。単なるおとぎ話です。病院に行って処置を受けて、それが適切であれば、病気や怪我も治るでしょう。しかし、願っただけでぼくたちの病をすぐに治してくれる人は近くにおりません。治してくださる神様もいません。たとえ、イエスに人を癒す力があったとしても、ぼくたちの近くにイエスは居ません。二千年も昔にそんなことがあったのですよ、と聞かされても、「ああ、そうなんですか」と言うだけのことです。昔の奇跡話を好きな人が多いのですが、それは昔話に過ぎません。奇跡なんてものは「信仰」と関係ないのです。

 イエスはそんなこと百も承知でした。だからイエスがこの場面で伝えたかったことは、奇跡ではなくて「人を赦すのは人だ」ということだけです。

 人間が作って押し付けた決まり事に合わせることができない人が、それを自分の罪だと考えて、罪の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれているとすれば、人間が作り出したそんな罪を赦せるのは人間だけです。罪の呵責に苦しんでいる人には、赦しと自由を宣言してあげる人間がいれば良いのです。だから、イエスは罪に悩む人に「君の罪は赦される」と力強く宣言して見せました。

 イエスは優れたディレクター(監督・演出者)であり、プロデューサー(創作責任者)でした。

 「人を赦すのは人であって、神の登場する余地は無い」というテーマを、聴衆を巻き込んだ三次元のドラマの中で体験させるために、この一連の壮大なパフォーマンスを計画し、群衆を巻き込んだ場面設定の中で演じて見せて、聴衆に考えさせたのだと思います。まるで寝床に縛り付けられたかのように、起き上がれなかった中風の男を、イエスは奮(ふる)い立たせ、男が自分の寝床を担いで出ていく姿を見せて、その場にいた皆に、他人の評価に甘んじていないで「自分で起き上がり、寝床を担いで歩いていけ」とイエスは促(うなが)したのです。

 

【ぼくたちは】

 イエスの言葉はもちろん、この物語を読んでいるぼくらにも投げかけられているのだと、マルコ福音書の著者は示しているに違いありません。

 他人の評価に押し潰(つぶ)されている人が一人で歩き出せるように、赦しを宣言する福音をぼくらも人間として伝えてまいりましょう。

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