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「証拠も実績も無いことを信じるな」20240407

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「証拠も実績も無いことを信じるな」20240407

「証拠も実績も無いことを信じるな」

              説教者 岩本義博

聖書 ヨハネ福音書 二十章 十九節〜二十九節

 

 国の身勝手な指導者が邪魔者を抹殺しても、他の人が起き上がって来ることが復活であって、死んだ人が、生前のような姿で甦ってくるような復活はない、と先週言いました。

 これに対して、身体の復活を信じる信仰もあるのだから・・・身体は復活しないと強調する必要はない、というような反論をいただきました。反論のように理解している人が多いと思いますけれども、これは、どちらでもいいようなものではないとぼくは考えております。

 ちなみに、復活のイエスを登場させる三つの福音書はどれも、とても復活とは言えないことを論じていることに気づきました。復活のイエスは、締め切った部屋に突然出現できるのだそうですから、元の身体に甦ったんじゃなくて、バージョンアップした新しい身体に生まれ変わったようなもので、完全にリニューアルです。復活したとは言えません。

 

【すごい著作家揃い】

 多くの人は、こんな細かいことにいちいちこだわらないのでしょう。理解できなくても、聖書に書かれている通りになったんだろう、という程度で済ませているのだと思います。

 それにしても、復活という難題を、興味深く美しく描き出した福音書の著者たちはなかなかの執筆家です。福音書に限らず、聖書に記録されている物語の著者たちは本当に凄腕揃いです。ハリウッド映画の中には聖書物語の構図をそのまま利用したと思える作品が多々あります。子供の頃から聞かされてきた聖書物語が頭に入っているアメリカ人を相手に、それに似た筋書きの物語を利用して、登場人物や背景を変えて、未来のSF映画を作れば、ヒット間違いなしです。聖書物語を利用するハリウッドの映画人たちも大したもんです。

 

【復活のイエスに命令させるヨハネ】

 さて今日は、ヨハネ福音書を取り上げます。この福音書はイエスの時代から六十年ほど後の紀元九十年代に、エルサレムから遠く離れた地でまとめられたようです。二世紀のキリスト教会はイエスの直弟子ヨハネの著作だと考えていたようですが、そんなはずはないのです。

 このヨハネの作風は、舞台の台本のようです。生き生きと描かれている登場人物や物語の展開に魅了されている信者も多いのです。しかし、あまりにも上手い表現には気をつけなければならないとぼくは考えています。なぜなら、作品としての質が高いのは、長い年月の間に、いろんな人の手が加えられているからだろう、とぼくは勘繰(かんぐ)っているからです。

 さて、裏事情はともかく、この福音書も、復活のイエスを弟子たちの前に登場させます。

 復活の日曜日の夕方に、ユダヤ人を恐れて弟子たちがドアを閉じ鍵を掛けて潜んでいた隠れ家に、イエスが現れたと書いています。

 間違いなく十字架に付けられた私だよと言わんばかりに、イエスは手と脇腹(の傷)を見せて、「シャローム(平安あれ)」といったのだそうです。面食らっている弟子たちにイエスは「父(神)が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」と突然に突拍子もない命令を下します。そして彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、君たちが赦せば、その罪は赦され、君たちが赦さなければ、赦されないまま残る」と言うのです。(参考 マタイ 十六章十九節、十八章十八節)

 復活したイエスに会った弟子たちは、罪を赦す権威をイエスから与えられたのだと主張しているのですから、教会組織に権威を持たせるために、教会自身が作った物語に違いありません。さらに、「あなたが赦せばゆるされる。赦さなければ赦されない」という言葉には、教会の傲慢な意識が反映されていると思えます。

 

【次の日曜日】

 裏切りのユダを除けば十一人のはずですのに、なぜか十二人の一人であったトマスは復活の日曜日の夕刻に他の弟子たちと一緒にいなかったために、復活のイエスに会えなかったと書いてあります。こういう間の悪い人はどこにでもいます。「ぼくたちは主を見た」と他の弟子たちが言っても、トマスは信じませんでした。そして「あの方の手の釘の跡を見て、釘跡に指を差し込んでみなければ、また、脇腹(の槍の痕)にこの手を突っ込んでみなければ決して信じない」と言ったのでした。

 それから一週間後、弟子たち全員は鍵を掛けた隠れ家にまだ潜んでいたのです。そこにイエスが「シャローム」と言って突然現れて、今度はトマスに「ここに君の指を当てて、ぼくの手を見よ。君の手を伸ばし、ぼくの脇腹に入れよ」「信じない者にならないで、信じる者になれ」と言うのです。トマスは恐れて後ずさりでもしたように「私の主、私の神よ」と答えたのです。そんなトマスに「ぼくを見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」と追い討ちをかけます。

 イエスの言葉は綺麗で格好いいんですけれども、「見たから信じたのか」という表現は異様です。見たなら信じる必要ありません。「見たから信じたのか」ではなくて「見て確認したか?」、と問うべきです。また、「見ないで信じる者は幸いである」という表現は綺麗ですけれども、実は、危険な言葉なのです。実態のない投資話に騙されて大損している人がいっぱいいるように、確約できない人が使う言葉だからです。十二弟子は復活のイエスに確かに会ったと証言しています。しかし、復活のイエスを決して見ることができない信者に、有無を言わさず「見ないで信じる者は幸いである」とイエスの口から言わせたのです。綺麗な響きの言葉ですけれども、復活のイエスに会えない信者に即決を迫る詐欺の常套句(じょうとうく・決まり文句)であって、脅しにさえ聞こえます。

 

【ぼくたちは】

 教会組織の要である十二弟子を権威づけるために、殺されたイエスがバージョンアップして復活したと信じるように教会は要求しますが、そんなことを信じる必要はありません。キリストを教会の頭にした弟子たちは、復活したイエスの肉体を見たと証言しているのだから、君たちは見ないで信じなさいと要求するのですが、こんな弟子たちを信じ、教会の権威に従ったために、世界中で多くの人が、不必要な労苦を強いられ続けているのです。しかし人間イエスは神に対する罪人などいないのだから、神への供犠(くぎ・いけにえ)も必要ないと教えただけです。この教え(福音)を受け入れるだけで、ぼくたちは、謂(いわ)れのない重荷を振り落とせるのです。だから、ぼくたちは、肉体の復活などを宣教せずに「イエスの教えを信じなさい」とだけ伝えましょう。

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