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「外国女がイエスから差別を消した」20240811
「外国女がイエスから差別を消した」20240811
聖書 マルコ 七章二十四節~三十節
先週は、人間イエスだけがぼくらの実生活に関係あると言いました。言い換えれば、人は概念のキリストから影響を与えられる必然性はないということ、そして人は、人間イエスと深く関係することができるということです。ですから、今日は人としてのイエスに目を注ぎます。
【イエスは差別する教育を受けていた】
人は教育によって作られます。イエスといえども、初めから完成していたのではなくて、教育を受けながら大人になりました。
親に任せるしかない赤ちゃんの時代を過ごし、母マリアから言葉を教わり、同年代の子供たちとシナゴーグに通いユダヤの教師(ラビ)から律法(トーラー)を学び、民族的宗教的価値観を叩き込まれたのです。
ユダヤ人は選民(神から選ばれた民族)であるという思想を教え込まれていたので、他民族を差別していました。イエスは差別者からスタートしたはずです。今日の物語に出てくるイエスの言葉にはその証拠がはっきり残っています。
【過去の説教から】
今日のために過去の説教を読み返しました。時は十三年前。すなわち東日本大震災の年です。「女がイエスに気付かせた」(二〇一一年八月二十一日)と言う説教題でした。書き出しには、「この夏は、大変な暑さと、三月十一日大震災以降のごたごたと、政治の混迷などで、心身ともに疲れてしまいました」とあります。今もそのまま使える言葉です。十三年経っても何も変わっていません。
【イエスは休息したかった】
昔は説教を作るためにずいぶん資料を調べていたことが判り、偉かったんだなあと感心しました。最近は疲れるのであまり調べません。
疲れると言えば、イエスも人間ですから、たくさん活動した時には疲れたでしょう。「誰にも知られたくなかった」と書いてありますから、休息のために、フェニキア地方のティルスという町に行ったようです。
フェニキアという呼び名は、貝から取れる紫色の染料(ホイニエクス)に由来しているのだそうです。その地方には、カナンの子孫が住んでいました。カナンは、ノアの箱舟に乗ったノアの三人の息子(セム、ハム、ヤフェト)のハムの息子(創世記九章十八節)の名前です。
イスラエル民族は、神に選ばれたのはセムの子孫だと信じており、ハムの子孫であるカナン人を軽蔑していました。今の戦争にも関係あります。
カナンの父であるハムが、ノアが酔って裸であったのを見て、それを他の兄弟に告げたことで、なぜかノアはハムの子カナンを呪った経緯が創世記(九章十八節〜二十九節)に書かれており、「カナンは呪われよ。奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」とノアが言ったことになっております。理由はともかく、イスラエル民族はカナンの子孫を軽蔑しておりました。
ユダヤ人が嫌う地方にイエスが出かけたのは、お忍びで休養したかったからでしょう。しかし、なぜか、イエスの正体は知られたようです。
【イエスの差別発言】
ギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれの女がやってきて、娘から悪霊を追い出してほしいと懇願したのです。
イエスは、「まず、子供たちに十分食べさせなきゃいけない。子供たちのパンを取って、小犬にやるわけにはいかない」と女を突き放しました。
イエスは、イスラエル民族を子どもたちに、女を小犬に喩(たと)えたのです。
アイヌの詩人・古布絵(こふえ)作家の宇梶静江(うかじ しずえ)さんの本「すべてを明日の糧として」には、子どものころに「ア・イヌだ」と呼ばれ、馬鹿にされたと書かれていました。
イエスも、この女を「小犬」と呼んだのですから、イエスに差別意識があったことは明白です。
イエスが差別意識を持っていたなどと、熱心なクリスチャンは聞かされていないでしょうが、今日の箇所を素直に読めば、イエスは差別者でした。
【女はイエスを諭(さと)した】
女は馬鹿にされたけれども、そのまま引き下がりませんでした。イエスの言葉を言質(げんち・ことばじり)にして「旦那様。食卓の下の小犬も、子どもがこぼしたパン屑(くず)はいただきます」と言ったのです。相手を怒らせない上手い言い方でイエスに切り返しました。
一本取られたイエスは「そこまで言うなら、わかったわかった。もう帰れ。悪霊は娘から出てしまった」と女に告げたというのです。
この女の賢い対応は、イスラエル民族だけではなくて、すべての民族が、福音を必要としているという新しい境地をイエスに開かせました。
このようにイエスは、罪人と呼ばれた人々や病人たちとの出会いの中で、たくさんのことを教えられたに違いありません。イエスが外国人の女から教えられたという事実はそれほど重要なのだという意味を込めて、マルコは福音書に書き残したのです。これに対して、並行記事を伝えているマタイは「女よ、あなたの信仰は見あげたものだ」とイエスに言わせて、イエスの差別発言の痕跡を弱めて、女の信仰のあり方に話を変えています。
ちなみに、マルコの本文には「信仰」への言及などないにもかかわらず、小見出しが「シリア・フェニキアの女の信仰」となっているのは、聖書翻訳者がマタイに影響されていたからでしょう。
大切なことは、マルコが伝えているように、福音に民族の壁は必要ないということをイエスに気づかせたのはこの女だったという事実です。
イエスは条件なしに赦しと救いを告げました。生まれの良し悪しや職業や、健康状態も問いませんでした。そんなイエスも、初めはユダヤ民族の枠内だけで活動していたのです。そんなイエスは偶然にもユダヤ人の軽蔑する地方で、軽蔑する外国人の女から、自分の福音が求められていることを気づかせられたのです。
あるがままに他者を受け入れるという宣教姿勢は、以後、民族の枠を超えて飛躍的に拡大する資質を得たのです。
【僕たちは】
外国人の女が、イエスの民族主義の枠を打ち砕いたように、予想もしていなかったことをきっかけに、福音は新しい次元へと広がって行くものなのです。教会がイエスの福音を伝えるならば自分の信念を他人に押しつけるのではなく、女に開眼させられたイエスのように、様々な状況に置かれている人に柔軟に対応し、他者をそのまま受け入れるものになる必要があるのだと思います。