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「選挙の危機」20241020

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「選挙の危機」20241020

聖書 ルカ福音書 二十三章十三節~二十五節

 

 小学生の頃は民主主義っていいもんだと思っていました。民主主義は多数決で決めるからみんなの意見が反映するのだと教えられたからです。少数意見も大切にされると聞かされましたけれども、納得できませんでした。その頃の感覚は間違っていません。現実に少数者は無視されています。

 かつて軍国主義の日本では国民の意見を無視した権力者が勝手に戦争を起こしたので、国民は悲惨な目に遭ったのだけれども、戦後、アメリカによって民主主義が持ち込まれてからは、国民が意見を自由に言える平和な国になったのだと教えられましたが、現実はそうでもありませんでした。

 一口に民主主義と言っても様々な形態があって、運用も様々で、長所も欠点もあります。ちなみに、アメリカは大統領制民主制です。

 現代の日本は選挙で選ばれた議員が国民を代表して議会で政策決定や法律の制定をする議会制民主制で、主権は国民です。

 終戦前の日本は、形式的には立憲君主制で、国家の元首は天皇で主権は天皇だったのです。とは言いましても、天皇が何事でも勝手に決めるということではありません。大日本帝国憲法(一八八九年発布)の翌年から帝国議会が開かれております。

 衆議院議員は国民選挙によって選ばれたのです。もっとも選挙権を認められたのは、一定額以上の納税をした成人男性に限られていました。現在の参議院は無く、天皇によって任命された貴族や皇族による貴族院があったのです。

 選挙権にかなりの制限があることは問題かもしれませんが、現在のように、十八歳になればだれにでも選挙権が与えられるというのも不安です。

 今は衆議院議員選挙真っ最中ですし、アメリカの大統領選挙戦も真っ最中です。日本は選挙権のある人には投票所入場券用紙が郵送されてきますが、現在のアメリカでは不法移民が選挙に参加することが懸念されています。国土の広さや人口の多さや、郵便投票の際の資格確認が難しいこともあるようですが、投票資格を明確にしなければ、国の存続に関わります。

 君主制度であれ代議員制度であれ、要するに弱い立場の国民のことを考えて政(まつりごと)を仕切ってくれる人が上に立てば問題ありません。しかし現実は、その逆の場合が多いのです。人間という動物は権力を握ると人間性が変わるようです。権力を与えられた者が自分の欲に負けて欲しいままに振舞うことになれば、国民の生活が壊されます。

 悪が蔓延(はびこ)らないように、制度の抜け穴を改善しても、新しい抜け穴を作る人がいるので、追いかけっこになっているのでしょう。

 どんなに頑丈な城を作っても、裏切り者が大手門の関(かんぬき)を開いてしまえば守れません。武田信玄の言葉と言われている「人は城、人は石垣、人は堀」で判るように、守りの要(かなめ)は制度や物ではなく人なのです。たとえ制度が未熟であっても、国民を大切にする君主であれば、国民は守られます。要するに、制度よりも制度を運営する人の人間性が重要に違いありません。

 裏金問題も権力争いも、自我欲と保身に狂った人間の業(わざ)に他なりません。権力を持てば好き勝手なことをしたくなる。そんな誘惑から逃れられるように、「誘惑に遭わせず、悪より救い出したまえ」という主の祈りの一節を、権力者は毎日唱えてから仕事を始めてほしいと思います。

 

【裁判形式のリンチにかけられたイエス】

 さて、話した覚えのない部分を今日取り上げましたのは、現在行われている選挙にも関係があると思ったからです。今日の話からは、権力による圧政や弾圧、人心操作や扇動など、民衆の声が反映されない多数決の実態を見ることができると思います。

 三十歳を超えたイエスが社会に出て、したことは難しいことではありませんでした。宗教によって洗脳された人々が、既成概念や慣習や儀式などに囚われて、抑制された生活しかできなくなっていた現状を見たイエスは、間違った神理解から人々を解き放とうとしただけです。そうであるにもかかわらず、イエスは官憲に捕えられたのです。

 十二弟子のユダが、イエスを金で売り渡したことになっていますけれども、裏切りの責任をユダ一人に押し付けるために作られた話のように思います。とにかく、捕えられたイエスはユダヤの最高法院に引いていかれ、「私は神の子であるとかメシアである」と言っていたという濡れ衣を着せられた末、ローマ帝国のユダヤ属州の総督であったポンテオ・ピラトの元に連れて行かれました。ところが、イエスがガリラヤ人であることを知ったピラトは、関わりたくなかったからでしょう。ユダヤの王ヘロデに送り返しました。しかし、祭司長や律法学者たちはヘロデに、激しくイエスを訴えたので、もう一度ピラトに送り返されました。ピラトは「イエスが死刑に当たるようなことをしていないから鞭打ちだけして釈放してやろう」と三度も提案したそうですが、宗教指導者たちと民衆はピラトの提案を拒んで、なぜか「イエスを十字架につけろ」と激しく要求したので、ピラトはその要求に負けたのだそうです。総督という権威の持ち主が、占領下のユダヤの民衆の声に負けたというのも情けない話ですが、なぜか権力者は民衆の反応を気にします。権力とはその程度のものなのでしょう。

 マタイ福音書(二十七章二十四節〜二十六節)によれば、イエスの血に対する責任は私にはないと言ってピラトは手を洗ったとまで書かれています。後の教会がローマに忖度(そんたく・配慮)して、ローマには責任はなかったことにしているような気がします。しかし、権力者たる者が罪のない者を十字架にかけることを容認した罪は免(まぬか)れません。また、エルサレムでの利権を守るためにイエスに濡れ衣を着せて十字架につけるように扇動した宗教指導者たちの罪も免れません。さらに、十字架刑に当たる罪人でないことを知っていながら、扇動に釣られて「イエスを十字架につけよ」と叫んだ群衆の罪も免れません。

 

【ぼくたちは】

 イエスを十字架刑にしたのは、権力者ではなくて、その場にいた全員です。正義や知力のない権力者と、判断力を失った群衆が行き着く先は民主主義の多数決のような形をとったリンチでした。

 イエスを十字架につけたような不条理が過去の選挙や先日の総裁選挙でも、行われてきたのではないでしょうか。同じ過ちを繰り返さないようにしなければなりません。未来を左右する選挙が始まって、残すところ一週間しかありません。

 罪なき人を惨(みじ)めな目に遭わせないために、ぼくたちは正々堂々と意見を述べ、扇動に巻き込まれない生き様をみせましょう。少なくとも、自称クリスチャンには、そのような生き方を求めます。人民が主権者であるならば、それにふさわしい正義や知恵や判断力を持つべきです。イエスと共に生きるということはそういうことだと思います。

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