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「全て赦される」20240714

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「全て赦される」20240714

聖書 マルコ福音書 三章二十八節〜三十節

 

 「わたしは勉強ができませんでした」と先週言いました。四月に小学校の同窓会に行きました際に、そこに集まった人たちは頷いてくださるでしょう。ただし、勉強ができないということはいわゆる阿呆(あほう・アホ)だということじゃありません。学校で教えてもらったことをそのまま覚えるのが苦手だっただけであります。(笑、言い訳です)

 学校から帰りますと、予習復習などせずに、すぐに遊びました。もちろん、宿題があったことなど覚えていません。次の日の授業が始まった時に、先生が「宿題は・・・」という言葉を発した瞬間に「ああ、宿題があったな」と思い出す始末でした。

 小学校四年、五年、六年と一緒だった同級生も知らない二年生の時のエピソードを紹介します。先生が毎日、授業が始まる前に漢字書き取りの小テストをしてくださいました。書き取りの勉強など何もしなかったことに、毎朝のテストが始まる時にぼくは気がつくわけです。もう皆さんもお判りでしょう。点が取れるわけありません。

 ある日、一念発起して、学校から帰るや否や翌朝のテストに向けて勉強を始めたのであります。食事までずっと、夕食後も寝るまでずっとです。親が心配して「義博、なんかあったんか。大丈夫か」と声をかけてくれたくらいです。

 翌朝はもちろん、それまでに見せたことのない笑みを浮かべまして、自信満々でテストを受けたんでございます。しかし、十点満点の内の九点だったんです。この小学生の心の痛みと失望感、判っていただけますでしょうか。

 遊びを全て返上して、テレビも見ずに何時間も勉強して満点取れなかったのですから、ぼくは反省しました。

 これほど勉強しても満点を取れないのならば、勉強にこんなに時間を使うのは勿体無いと悟ったのであります。勉強のために時間を浪費するのはやめて、時間は好きなことに使うことにしようと決めました。あらゆるテストの目標点数を六割程度に設定して、適度に勉強することにしたんです。

 小学校二年生でこの悟りを得たおかげで、多くの人には考えつかないような発想ができるようになったのだと自負しております。

 他にも面白い話がありますけれども、それはまた別の機会に譲ることにして、そろそろ本題に入ります。

 

【律法批判じゃない】

 イエスは馬宿皇子(うまやどのおうじ・聖徳太子)のように特別な生まれで、神童であったと思いたい人が多いようです。しかし、実際には一般庶民だったのです。一般人の苦労を経たからこそ庶民の視点で、宗教社会構造の矛盾に気づき、洗練された言葉じゃなくて、庶民の言葉を使って律法主義を批判できたのだと思います。

 ぼくは律法を否定していると言われますけれどもそうではありません。たとえばモーセの十戒は長い年月をかけて人間社会が作り上げた弱者保護の法律だと考えていますから律法の基本を否定する理由はありません。イエスも律法を批判していません。ただ、一般人の生き方を規制したり弾圧する権力の手段として律法を利用する律法主義を批判なさったのです。その思考は現代も通じます。

 

【福音の金字塔】

 先週読んでもらった箇所の最後の部分について取り上げる時間が前回はなかったのですが、とても大切な内容なので、今回改めて取り上げます。

 短い文章ですから、聖書をお持ちでない方のために、以下にマルコによる福音書三章二十八節〜三十節の全文をもう一度読みます。

『「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜(ぼうとく)の言葉も、全て赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがそうおっしゃったのは、「彼は穢れた霊に取り憑かれている」と人々が言っていたからである。』

 とても重要な内容であることは即座にご理解いただけたことと思います。これはイエス自身の発言でして、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、全て赦される。」などという言葉はめちゃくちゃ過激です。

 「全て赦される」なんて言ってしまうと宗教の出る幕がなくなります。ですから、どんな宗教の専門家も言わないはずです。イエスを宗教家のように考えておられる人もいるようですが、この言葉を聞いただけで、イエスが宗教家でなかったことを確認していただけるでしょう。それほど過激で、非常識にさえ思える言葉ですから、これは本文批評(ほんもんひひょう)の立場から考えても、イエスが本当におっしゃった言葉であると言えます。

 ちなみに、「はっきり言っておく」などと訳されている部分のギリシャ語原典をカタカナで書けば「アーメン レゴー フーミン」となります。カタカナ語を使うのは嫌いですが、とにかく、「まことに 君たちに 言う」と日本語に訳せます。イエスは重要な内容を伝えようとする時に、まず「アーメン」を冒頭に置いたようです。現在でも祈りの結びと讃美歌の結びに使われていますが、これを初めに置いたというのがイエスの特徴です。

 神から赦されるために何をすべきかと教える律法学者の前で条件を何も出さずに「全て赦される」などと言えば悪霊憑きだと非難されてもしょうがないことを承知の上で、イエスはあえてそう言ったのです。なぜなら、これこそイエスがみんなに最も伝えたかった教えだったからです。犠牲も供え物も信仰さえも要求されないままで「全て赦される」というのがイエスの福音の真髄です。

 ただし、続く言葉、すなわち「しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」という但し書きがあることに疑問を感じた人もおられるでしょう。確かにこの但し書きは「全て赦される」という言葉と完全に矛盾しています、ですからぼくはここを言葉通りに受け取りません。

 心配しないでください。聖霊のわざか悪霊のわざか、誰にも判断できません。ですから、『イエスがこうおっしゃったのは、「彼は穢れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである」』と書かれているように、イエスを悪霊憑きだと罵(ののし)った人々に対して、「聖霊によって話している私を悪霊憑きだと言う君たちは、結果的に聖霊を冒涜していることになる。もしそうだとすれば、永遠に赦されず、君たちは永遠に罪の責めを負うことになる」と言って、理解不能な霊を持ち出してきた人に対して、彼らの信じている聖霊という言葉を利用して脅し返したんだろうとぼくは考えています。

 

【ぼくたちは】

 理解不能な悪霊も聖霊も関係ありません。ぼくたちは、身体を犠牲にすることも供え物や信仰さえも要求されない条件なしの赦しを自分でも受け入れ、大切な人たちに伝えればいいのです。

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