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「生活ぶりから学ぶ」20240421

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「生活ぶりから学ぶ」20240421

聖書 マルコ福音書 一章 九節〜二十二節

 

 先週は大事な日曜日に休みをいただいて大阪の小学校の同窓会に行かせてもらいましたので、十四日の説教をいたしませんでした。そんな訳でユーチューブで説教動画をご覧いただいている方々に配信できなかったことをご容赦願います。

 小学四年生から六年生までを共に過ごした同級生と会って、あの頃は感じることができなかったけれども、学校という場で出会った友だちと一緒に生活していた経験の大切さを改めて考え、感謝いたしました。

 

【振り出しに戻すマルコ】

 さて、四月から年度も代わってしまったことですから新たな気持ちで、再びマルコ福音書の初めに戻って聖書を読み直すことにしました。なぜなら、マルコは福音書の終わりに、双六(すごろく)で初めに戻るような感じで、初めに戻るように促しているからです。双六と言っても若い人には判らないでしょう。ゲームのリセットみたいなもんです。だからマルコは、ガリラヤに行けば殺されたはずのイエスがまるで生きて活動しているような出来事に出会えるだろう、と福音書の終わりに書いたのです。

 

【ぼくたちのガリラヤ】

 では、ガリラヤってどこなんだ、とお感じになる方々のために言っておきますと、ぼくたちが生活している現場が、ぼくたちのガリラヤです。

 瓦礫の山になっているガザやウクライナの状況を映像で見ただけでも判りますように、ぼくたちが一番大切にしなければならないのは、ぼくたちに直結している生活の場なのです。

 だからマルコは、ぼくたちに、「生活の基盤である生活の場に戻って、イエスがどんなことを大切にして、何をなさったかという生活振りを知り、それと比べたり、それを真似(まね)たらどうか」と提案しているように思います。

 

【こどもの頃は悪ガキ】

 子どもの頃からイエスは良い子だったと感じている人は多いでしょうが、イエスといえども初めから出来た人間ではなかったはずです。

 若い頃は社会や家族の人間関係や性的な悩みも経験したはずです。そんな悩みでもなければ、わざわざ修行しようとは思わなかったでしょう。「罪を悔い改めよ」と荒れ野から叫んでいたバプテスト・ヨハネの元に出て行ってバプテスマ(洗礼)を授けてもらって、荒れ野で断食生活をしたようですから、イエスはよほど欲深い悪ガキだったのかもしれません。こんなことじゃダメだと思って禁欲生活に励むことにしたんだろうと想像しちゃいます。しかし、禁欲しようと思えば思うほど、欲情も先鋭化されて苦しみが増すように思います。

 四十日の断食を終えたイエスは、「神の子ならあの石をパンに変えてみろよ」(ルカ四章三節)などと言うサタンの誘惑に打ち勝って、位(くらい)が上がったお坊さんのように、自分が悟った福音を街の会堂で述べ伝えなさったんだと考えているクリスチャンが多いことでしょう。しかし、実際はそうではないと思います。なぜなら、街に出てきてからのイエスの生活振りを見ると、欲望を断ち切ったお坊さんのようではないからです。

 冴(さ)えない漁師を友だちにして、家に上がり込んでご馳走になったり、評判の悪い連中に混ざって飲食したと書かれているほどですから、欲を断ち切っていないことは明らかです。

 そんなことから判るのは、結局のところ、イエスは修行を断念したに違いないということです。欲を抑えようとしても人間の本質は変わらないんだから修行なんかしても無駄だと悟ったイエスは、荒れ野での生活を捨て、街でごく普通の人間として暮らすことにしたんだろうと思います。

 ちなみに、食欲も性欲も人間が生活を続けるために必要なことです。貪欲(どんよく)にならない限り否定されるものではありません。責められるべきなのは、「皆様の幸せのために働いています」という振りをしながら自分の欲を満たすために働いている人間です。

 

【熱心なユダヤ教徒に自分の説を教えた】

 とにかく、イエスは冴えない友たちと連れ立ってカファルナウムという街のユダヤ教の会堂に行ったのだそうです。

 安息日(土曜日)の会堂には信心深い人々が集まっているのです。そんな場に行ったのは、イエス一行が信心深いユダヤ教徒だったからじゃありません。伝統的なユダヤ教の会堂で、イエスは自分が悟ったことを教え始めたんです。この事実だけを取り上げても、イエスが敬虔(けいけん)で信心深い若者ではなく、伝統を無視した無礼な若者であったことは確かです。ここには、そんな情景(場面)が描き込まれているのです。

 多くのクリスチャンは、「さすがイエス様は、安息日に弟子を連れて会堂に行き、集まっている皆さんをお教えになったんだ」なんて思っておられるでしょう。しかし、そんな風には書かれていません。素直に読めば、伝統的な信仰を守っているユダヤ教徒にとって、イエスは無礼な若者にしか見えなかったはずです。そういう事実を読み取ることが聖書を大切に読むことだとぼくは信じています。イエスを敬虔で信仰深い若者だと信じ込むのは自由ですが、書いていない情景を読み込むことは聖書を大切に扱っていないとぼくは思います。聖画のように綺麗な状況を好む人が多いことは、よく承知しているつもりですが、書かれていることを素直に読むことのほうが大切なのです。

 

【ぼくたちは】

 聖書というのは、名前からして人を惑わす書物です。聖なる書というのが本の題名になっているものですから、俗なる人は自分に関係ない本だと解釈して手に取ることさえ憚(はばか)るのです。でも、いま言いましたように、イエスが俗人であることが書かれているのならば、素直に読めば面白いと感じていただけるでしょう。もちろん、そういうことを狙ってマルコは福音書を書いたはずです。なぜならば、教会で教えられる高貴なイエスではなく、生のイエスの生き様に触れることが大切だとマルコは信じていたからでしょう。

 これからも、飾らないイエスの生活振りに触れ、ぼくたち人間同士が、どのように触れ合い、助け合っていけばいいのか、考え合い、語り合い、学び合って行きたいと思っております。

 一週間に一度か二度会える場合にも、一年に一度の場合でも、あるいは今回ぼくが経験した同窓会のように、六十年振りに会ったにしても、互いの生活振りに触れて、普段の生活に根ざしたお互いの安全を喜び合える関係作りを、常に再会を望みつつ、心掛けたいと思っております。

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