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「逆転的発想の信仰・あなたはそのままでよし」20240728

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「逆転的発想の信仰・あなたはそのままでよし」20240728

聖書 ローマの信徒への手紙 四章四節〜五節

 

【聖書本文】

 「働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきもの(報酬)と見なされます。しかし、不信心な者を義となさる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」

 

【破天荒への出発点】

 今でこそぼくは、伝統的なキリスト教信者から不謹慎な反クリスチャンだと非難される説教を語っていると言われますけれども、昔はいわゆる福音派と呼ばれる教会教派が協力して運営していた神学校で勉強していた真面目そうな信者でした。福音派というのは、自分たちこそが真っ当な福音を伝えている教会グループの一員だと自称している人々です。いわゆる伝統的なキリスト教を守る神学を教える学校の学生でした。

 二十歳の時、大阪を出てみたくて、教会の牧師の出身校であった東京基督教短期大学に推薦してもらいました。当時は国立市にありました。その一年前から東京には、小学校の同級生で親友の田中勇二が三鷹のICUに行っておりまして、比較的近かったので、何度も会いました。銀座の日本マクドナルド一号店に行って、初めてのホコ天を二人で歩きながら食べたことを覚えています。

 日曜日には大阪の教会が所属していた日本バプテスト連盟の八王子めじろ台伝道所に先輩の紹介で通うようになりました。小さな伝道所でしたが、一時はぼくを含めてバプテスト教会出身の神学生を三人も受け入れてくださっておりました。そこに大平理吉という代表執事がおられました。

 小学生時代に「スーパーマン」というテレビドラマがあって、スーパーマンの吹き替えをしておられた声優の大平徹さんのお父さんでした。

 日曜日の教会の片付けを終えて、帰る時に、スーパーマンのお父さん大平理吉さんと奥さんは、京王高尾線のめじろ台駅前の中華料理店にぼくらを連れて行って、おいしい広東麺を、よくご馳走してくださいました。全寮制とはいえ、日曜日の昼食がなかったぼくらにはありがたかったです。

 ある日「いつもいつも、ご馳走になってばかりですみません」と言いました時に、大平さんは「喜んで与えることがすばらしいことだと思うかもしれませんが、喜んで受けることもすばらしいことですよ」「喜んで受け入れてもらえると、私たちも嬉しいんです」と笑顔で言ってくださったことが忘れられません。この時に教えられた「ただ受け取る・受け入れる」ということは、人間にとって、とても大切なことです。なぜならば、このように、与えることと与えられることが成立している関係が「愛」であり「信仰」だからです。

 

【信仰理解の変化】

 教会では「信じなさい」「信仰が大事だ」と教えられますけれども、何をどのようにすればいいのか、判っている人は少ないと感じます。これほど騙す人が多くなりますと、めったやたらに信じればいいということにはなりません。

 ぼくは中学二年の秋に、小学校同級生の萬代宰(まんだい おさむ)くんに誘われて初めて教会に行き、十六歳の誕生日にバプテスマ(洗礼)を受けました。キリスト教の教義を受け入れたことを教会のメンバーに認めてもらってはじめて正式な信者になるというシステムです。バプテスマを受ける数ヶ月前から、バプテスマ準備クラスでキリスト教教理を学びました。もちろん理解は不十分で、腑に落ちないこともありましたが、認めてもらうために「信じます」と告白していた訳です。

 二十歳から、牧師になるために必要だとされる神学教育を二つの学校で計七年間受けました。それでも、腑に落ちないことはいっぱいありました。

 聖書は、全く異なった文化で書かれた古典ですし、その翻訳本を持っているのです。元々の日本にはない考え方や言葉を無理やり日本語に翻訳しているものなので理解しずらいことも多々あって、神学生生活は疑問の連続でした。

 日本バプテスト連盟の教派神学校は福岡の西南学院大学神学部です。そこで青野太潮(あおの たしお)先生から新約聖書について二年間教えていただき、最終学年の修了論文のメンターを引き受けていただけまして『パウロにおける「信仰」の理解』という題の修了論文を書きました。その際に気づかせていただいた「信仰」の理解によって、今のぼくは支えられていると言えます。

 先ほども言いましたように、はじめて教会に足を踏み入れた時から「信仰」が大事だと何度も聞かされて来ましたけれども、理解不十分でした。そんなぼくの状況を察知してくださっていたのでしょう。青野先生は「信仰」を取り上げてはどうかとすすめてくださいました。ただし、範囲が広くなって論点を見失わないために、『パウロにおける「信仰」の理解』に焦点を絞るように指導してくださいました。

 そこで、本当にパウロが書き残した七つの手紙から「信仰」(πιστιs・ピスティス)という言葉の用法を拾い上げたのです。それによってパウロが語っている「信仰」は、それまで考えていた「信じ込むこと」ではないと気付かされました。

 

【パウロから教えられた「信仰」理解】

 ローマ書四章五節には「不信心な者を義となさる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められる」と書かれています。

 「信仰(ピスティス)」の反対は「不信仰(アピスティス)」ですけれども、ここには「アセベイア」という言葉が使われています。「不信心な」と訳されているので「不信仰」と混同しやすいのですが、これは「不敬虔な」と訳すべき言葉です。

 敬虔とは形式などを敬(うやま)い、うやうやしく(礼儀正しく)、慎み(つつしみ)深いことですから、「不敬虔」というのは「無礼な」状態を示す倫理・道徳的な言葉です。

 「不信心」な、つまり「不謹慎」な人を裁く神を教えている宗教社会において、「不謹慎」な人をそのまま「義(ぎ・よし)」とするお方を信じれば「義」と認められるとパウロは言ったのです。

 このパウロの考え方は多くの宗教家や神学者とも異なっています。ですから、みんなが従来から教え込まれてきた「神」を連想しないように、「不謹慎(無礼)な人を義とする『お方』」と、パウロは「神」という言葉を使わない表現をしたのではないでしょうか。みんなが想像している「神」とパウロが教えている「お方」とは全然違うのです。

 

【不謹慎者を義とする「お方」】

 律法が要求している生活様式を守れない「不謹慎」者を「義(ぎ・よし)」と認めてくださる「お方」を信じる(受け入れる)ならば、すなわち。認められている事実を受け止めるならば、認め合う関係状態(信仰)を作り出すのだから、行いがなくても、「義」と認められるというのです。

 そうだとすれば、律法の要求を満たせないぼくでも、そのままで「義(ぎ・よし)」と認めてくださる「お方」を信じ(受け入れ)るだけで、安心できる関係状態が成立するのです。このような関係状態をパウロは「信仰」と表現していたのだと、ぼくは理解することができました。

 ここで、初めに申し上げた「喜んで与えることがすばらしいと思うかもしれませんが、喜んで受けることもすばらしいことですよ」と言った大平理吉さんの言葉が生きて来ます。

 不謹慎だとかふさわしくないと自分で思っているそのままの状態でぼくらは「義(ぎ・よし)」とされている。その「義(ぎ・よし)をそのままもらい受けるだけでいいとパウロは言うのです。

 

【受け入れ合う根拠】

 しかしどうして、みんなが簡単には受け入れられないほどの、馬鹿馬鹿しく思えるほどの論理をパウロは展開したのか疑問が湧いてくるでしょう。

 答えは、パウロがイエスという「お方」の福音を理解したからです。パウロはマルコ福音書のような物語を書き残しませんでしたが、イエスの生き様を、マルコ以上に研究したはずです。

 遊女、徴税人、怠け者、不謹慎な人に赦しを宣言なさったイエスの本心を理解したのでしょう。ユダヤ教徒時代のパウロは、真面目すぎてこんなイエスの福音を許せず、迫害した人です。しかし、イエスがなさったことやおっしゃったことの意味を悟ったときに、そのままで義とされていることに気づいたパウロは、律法主義の締(し)め付けから解放された(救われた)に違いありません。

 「律法に従えなくて、良い働きができなくて、神さまに裁かれると思っている人に」、律法主義の縛りから解放されたパウロは、そのままで「よしよし」してくださる方がいるのだから、それを受け入れるだけで、楽になれるんだよ、救われるんだよと言えるようになったのです。

 

【ぼくたちは】

 そのままでいいだなんて、馬鹿げた論理だと感じるかもしれません。しかし、これは空想ではありません。皆さん全員が経験してきたことなのです。思い出してください。

 うるさく泣いている赤ちゃんをあやす時に、何も善い事をしていない赤ちゃんを抱き上げて「よしよし。よしよし」と言うでしょう。それと同じです。

 「お前はうるさい、うるさい。お前は悪い、悪い悪い、あほんだら。泣き止め」と普通の大人は言わないでしょ。

 受け入れられていることを受け入れる。そんな受け入れ合っている関係状態が「信仰」なんです。そして同時に「愛」なんです。

 多くの宗教で語られているような、条件を達成したからもらうものは報酬です。そのようなギブアンドテイクの関係は商売です。「信仰」を商売道具にしちゃいけません。受け入れられていることを受け入れる。本当に大切な事はそれだけです。そんな安心の状態を教えたのがイエスです。それを伝えたのがパウロの信仰です。

 不謹慎なものがそのままで義とされるなどというそんな馬鹿げた福音を信じないという姿勢が「不信仰」です。自分の努力で、自分の手で掴み取りたいと願う人は、どこまでやれるか、勝手に苦労して試してください。ただし、迫害者パウロほどに苦しむ前に、信仰と愛に気づいて楽になってくださる事を願っています。

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