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「居眠りしてなさい」20250223
「居眠りしてなさい」20250223
聖書 マルコ福音書 四章三十五節〜四十一節
西野バプテスト教会の牧師として二〇〇五年四月から丸十九年間で九五〇回以上説教しました。
ほとんど、イエスが伝えた福音や考え方について思考を重ねてきた結果です。数年前から説教の結びに神を登場させないように努力しています。なぜなら認証できない神についてならば何とでも話すことはできますけれども、それは嘘をつくことになるからです。イエスについてもほとんど認証できませんが、地上に生まれた人であり、思い出話が伝えられている以上、何らかの想像はできます。ここが掴み所のない神とは全然違います。
【身勝手なリーダー】
さて、現在のトランプ大統領のように、イエスはとても身勝手な人と言うか、自分の判断で行動を起こす人でした。トランプ大統領が何を言い出すかと恐れ慄(おの)いている人が多いようであります。良し悪しの判断は別にして、考えていることをストレートに話す所には共感を覚えます。
いちにちの仕事を終えて、ようやく一休みできそうだと思っていた弟子たちに、「さあ、向こう岸へ行こう」とイエスは言いました。夕方になってから舟を出そうだなんて言われた弟子たちは驚き恐れたはずです。
満月でも出ていたならいいですが、そうでなければ夜の湖なんて真っ暗だからです。まもなく日が沈む湖に舟を出そうというのは無謀な命令です。
弟子たち四人は地元の漁師でしたから、湖のことも舟のこともよく知っていたからこそ、「夕方に舟を出そう」と言った師匠の言葉には呆気にとられたはずです。そうであるにもかかわらず、師匠イエスの言葉には逆らっておりません。このような弟子たちの態度にも改善すべき課題があります。
結果的に、付いてきた群衆を置き去りにしてイエス一行は逃げるように湖に舟出したんです。この物語に続く物語によれば、彼らが到着した対岸のゲラサ地方では、たくさんの豚が飼われていました。つまり、彼らが楽しめるような場所ではなくて、ユダヤ人が嫌う異邦人の土地だったんです。師匠イエスが何を考えているのか弟子たちには見当もつかなかったでしょう。
【イエスは居眠りした】
イエスは優しくて、リーダーの鑑(かがみ)のような人だという考えは誤解です。
疲れていた弟子たちが舟を操(あやつ)るのを尻目に、師匠イエスはさっさと居眠りしたのです。
話を少し戻します。湖上のイエス一行を突然に嵐が襲ったので、元は漁師だった男たちが恐れるほど舟は波を被って水浸しになったのです。しかし、イエスは眠ったままでした。
そこで弟子の一人が「師匠! 師匠!起きてください! おれたちがおぼれてもかまわないんですか!」と叫んでイエスを起こしにかかりました。
この弟子はたぶんペトロです。間違っていたらごめんなさい。ペトロに濡れ衣を着せることになりますけれども、どうせペトロの着物は嵐の中で「濡れ衣」ですからがまんしてもらいましょう。
こんなことになったのは師匠イエスが夕方に舟を出させたからです。しかも問題の種を蒔いた張本人は知らん顔で寝ているのですから弟子たちは腹が立ったでしょう。「師匠! おれたちがおぼれてもかまわないんですか!」と、弟子は精一杯の苦情をイエスにぶちまけたのです。
そこで、ようやくイエスは起き上がったかと思うと、湖に向かって「うるさい! 静かにせい!」と 叫んだと言うのです。すると、風は止んで、すっかり凪(なぎ)になったんだとさ・・・。などというのは作り話です。
【イエスは弟子を叱った】
このような経験をした弟子たちはイエスを非常に恐れて「いったい、この方はどなたなんだろう!風や湖まで従うとは!」と言い合ったと書かれています。波が高くても、凪(なぎ)になっても恐れる弟子たちは、どうしようもない腰抜けたちばかりだと福音書著者マルコは非難したんです。「まだ信じていないんか!」と、イエスが弟子たちを叱った言葉はこれを裏付けております。
今日の新共同訳聖書の小見出しは「突風を静める」とありますが、この物語の主題は「何を怖がっているのか!まだ信じていないのか!」とあるように、イエスによる弟子たちへの叱責です。
夕方に舟出して嵐に巻き込まれたり、イエスがお叱りになると凪になったという件(くだり)は、弟子たちが叱られる場面へと導く舞台設定です。
イエスは、弟子たちを叱ったとあるように、いつも優しくて怒らない人ではありません。
著者マルコが読者に本当に伝えたかったのは「何を怖がっているのか!、まだ信じていないのか!」とイエスが弟子たちを叱った事実です。
【教会を叱るイエス】
五十年前後にパウロが書いた手紙からも読み取れるように、マルコが福音書を書いた七十年頃は、弟子たちは教会の権威者(十二使徒)になっていました。そんな状況でイエスに叱られる弟子たちを描くことは福音書著者マルコにとって不利益だったはずです。なぜなら、物語で弟子を批判したマルコはイエスの言葉によって、弟子たちが代表している「教会」を非難したことになるからです。
「何を怖がっているのか!まだ信じていないのか!」と弟子たちを叱った師匠イエスの本心は「怖がってあたふたするなよ! 信じて付いて来いよ!」という程度の意味です。
【専門家らしくあれ】
どうしていいか分からないような、意味など理解できない理不尽なことがいっぱい起きます。そんなことにいちいち不満を並べても何の役にも立ちません。「向こう岸へ渡ろう」と言ったイエスに、元漁師の弟子たちは、湖と舟の専門家として反対すべきでした。しかし、言うべきことを言わずに師匠に従ったからには、波を被ってずぶ濡れになりながら、向こう岸に着けるように努力するしかないのです。愚痴などは邪魔にこそなれ、役に立ちません。
【ぼくたちは】
できることが無かったイエスは「怖がってあたふたしてもしょうがないやろう」「風が止むのを信じて待てよ」と言う態度で堂々と眠っていました。できることがあるならばするけれども、どうしようもない事態に対しては慌てて騒ぐなとイエスは言うのです。「肝(きも)が座っていないやつらだなあ」とマルコはイエスの口を通して弟子たちが代表している教会を非難したのです。ぼくらもすぐに慌てふためくのですけれども、物事には落ち着いて冷静に対処すればいいだけです。どうにもできないことの前では、イエスのように肝を据えて居眠りしておればいいのです。