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「悪霊つきだと非難される喜び」20240707
「悪霊つきだと非難される喜び」20240707
聖書 マルコ福音書 三章二十節〜三十節
ぼくのことをまるで悪霊憑き(あくれいつき)だと非難なさるかたがおられますけれども、そんなことでぼくは挫(くじ)けません。それどころか、悪霊憑きだと非難されることを喜んでいます。なぜならば、福音書に明記されております通り、イエスが自分の悟りを宣教し始めた頃は、当時の宗教指導者たちから悪霊憑きだと非難されていたからです。イエスがそう非難されたのですからぼくが悪霊憑きと非難されることは、恥ずべきことではなくて名誉なことだと思っております。
【悪霊憑きは単なる悪口】
四月二十八日に「悪霊憑(つき)は正統派のふりをする」という題で説教した時に、ユダヤ教の礼拝堂に入ったイエスを追い出すためにイエスの前に躍り出た男がいたという話をしました。常識的に考えて、そんなことをするのは礼拝堂の責任者だったはずだとぼくは説明しました。ところで、その男のことを、悪霊に取り憑かれていた男だったとマルコは表現したのです。伝統的な宗教に捕らえられている人をマルコは悪霊に取り憑かれている人と表現したのです。これでぼくは会堂に悪霊に憑かれた男がいたという謎が解けました。
敵を互いに罵(ののし)り合うのはよくあることです。宗教の世界でも同じで、互いを悪霊憑きだと罵り合っているだけのことです。
今日の話では、伝統的な宗教に取り憑かれている律法学者たちが、イエスを悪霊に取り憑かれていると非難しただけのことです。
クリスチャンは、キリスト(メシア)だと信じておられるイエスが悪霊に取り憑かれているなどとは思わないでしょうが、伝統的な神への信仰を教えている律法学者から見れば、イエスはまるで悪霊憑きに見えたのでしょう。
それだけではなく、今日の箇所では、一番近くに居てイエスを一番知っているはずの家族が、律法学者の非難を真に受けて、イエスを取り押さえに来たと書かれているのです。
すごい表現です。ここを素通りするクリスチャンが多いと思いますけれども、この記事はとても重大な証言です。聖書の一点一画も軽視してはならないと信じておられる生真面目な信者はよく読んでください。当時の伝統的な宗教家にとっても身内にとってもイエスはまるで悪霊憑きでしかなかったのです。
今日の箇所に続く物語にはイエスの母と兄弟姉妹たちへの言及があることから「身内の人たち」というのは、イエスの母マリア様と、後にキリスト教会を設立して教会の中心人物のように振る舞ったイエスの弟ヤコブのことだと判ります。
今日の箇所で判るように、彼らはイエスを特別な人だと認めていなかったから、イエスの活動を止めようとした人たちだったんです。
ルカ福音書にはイエスが十二歳の時に神童(しんどう)ぶりを発揮したという記事がありますけれども、もちろん後の教会が作った偉人神話です。ルカがイエスを特別な人として描いたのは、ルカの教会が事大主義だったからでしょう。事大主義というのは弱い者が強い者に従うという考え方です。しかしイエス自身は事大主義ではありません。むしろイエスは自主独立主義です。
家族がイエスを取り押さえようとした記事は、イエスが平凡な男であったことを証明しているのです。家族から見ても、人々の前に出て独自の教えを伝えるような人間ではなかったということです。イエスが神童であったかどうかなんて、イエスが伝えた福音と何の関係もありません。
イエスを素晴らしいと思えるのは、IQが高いからではなくて、平凡な人であったからこそ教えられた伝統的な律法解釈に行き詰まり、律法の根本精神の大切さに自分で気付いたことです。マルコの表現と、ルカの表現がこれほど異なっているという事実も、イエスが平凡な人間であったという事実も、聖書を誤りなき神の言葉だと信じておられる方々なら、そのまま受け入れるべきです。
【イエスとキリストを使い分けよう】
ぼくの動画を見てくださった方々からは否定的な反応だけではなく肯定的な反応も寄せられています。しかし、どの意見の中にも気になる表現があるので、訂正させていただきます。ぼくは何度もイエスは人間でありキリストは概念であると言ってきました。聖書を解釈する際にはこの両者を明確に使い分けるべきです。
福音書の中では最も早く書かれたマルコ福音書は、イエスの目覚めからスタートして、伝統的な宗教を支えてきた律法主義の間違いに気づき、その自己の気付きを宣教し始めたこと、それゆえに既得権を持つ既存の権力によって抹殺された、そんな人間イエスの生き様を伝えたのです。キリスト(メシア、救い主)の生涯ではありません。
「イエスこそがキリストであった」という告白が教会の基礎であると言われていますけれども、この告白が登場するのはイエスが殺害された後です。生前のイエスはこの告白を受けていないはずです。キリスト教会の基礎固めのために教会が作った告白だと思います。ですから、マルコを説明する時には「イエス」という表現を使うべきです。
イエスという呼び名は、イスカリオテのユダという表現と同様に、大工ヨセフの子イエス、ナザレのイエスという意味でしかありません。イエスを語る時に、「イエス・キリスト」とか「キリスト」という呼び名を使うべきではないのです。
教会の教えを信じ込んで来た人は、イエス様はキリスト(メシア、救い主)になるために生まれてこられたと信じ込まされているから勘違いしているのです。二世紀前後の手紙類に登場する「キリスト」という称号を、人間イエスを描いている福音書の説明に移植してはなりません。人間イエスの行動が見えなくなるからです。
イエスは人間です。キリストは救い主という概念です。イエスをキリストだと告白するのは自由ですが、人間イエスを説明している福音書の中にキリストという概念を持ち込んではいけません。
伝統的な宗教が庶民を圧迫し、庶民の財産や自由を搾り取っていることを批判なさった人間イエスの生き様を示しているのが福音書です。キリストの生き様などあり得ません。
【ぼくたちは】
イエスは伝統的なユダヤ教を批判したことで悪霊憑きだと非難されました。ぼくは伝統的なキリスト教を批判するから悪霊憑きだと非難されます。しかし伝統を批判することは悪霊と関係ありません。ありもしない悪霊という概念を持ち出して非難するのは、議論をはぐらかしているだけです。議論には議論で答えるべきです。ぼくらは正々堂々と、イエスがなさったように、論理的な話し合いで答えたいと思っております。