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「いかにして神は現れたのか」20240901
「いかにして神は現れたのか」20240901
聖書 創世記 一章 一節
「初めに、神は天地を創造なさった」聖書の一番初めに置かれている創世記はこの言葉から始まっています。当たり前のようにスーッと流れ込んでくる表現ですけれども驚くべき強い言葉です。
完璧に洗練された詩のように、一瞬にして人の心の奥深くに入り込み、人の心を取り込みます。
自然には抗(あらが)えない災害が起きることを経験している人でも、この言葉を聞けば、総じて完璧な宇宙は、だれかが意図して創造したと感じ、創造者への畏敬(いけい・心からおそれ敬うこと)の念さえおこさせます。
信心深い人々はもちろんのこと、宇宙を探究する科学者の半数をも取り込んで反論を許さない力強さがこの言葉にはあるようです。
【世界は神の言葉で始まったのではない】
詩的な表現として受け取るならば問題ありません。しかし、現実の世界を表現していると考える人には、危険な言葉です。なぜならば、現実社会が神によって創造されたと考える時、不条理な出来事に直面している人々にとって、解決できない苦しみを与える危険な言葉だからです。いくら素敵な響きを持った言葉であったとしても、無批判に受け入れるべき言葉ではありません。この言葉には危険が多すぎます。
聖書の記述はすべて創世記一章一節のこの言葉から始まったように書かれています。まるでビッグバンのように、この一点から始まって、人間の物語へと発展していったように描かれています。
しかし、現実はこの言葉と逆で、歴史を遡りながら物語は編纂されたのです。すなわち、初めの一言がすべての出来事の初めにあったのではなくて、出来事が先にあって、その物語を集約させて作り出した題名のようなものがこの言葉です。事後予言のような手法がとられているのです。
【ソロモンの時代】
これほど影響力のある言葉を発したのは誰なのでしょうか。
人類が信仰心を抱くようになった数万年以上も前からこのような表現はあったと思いますけれども、明確な文章として創世記に天地創造の始まりを告げる言葉が書き残されたのは太古ではなくソロモンの時代だと思います。
学者によって意見は異なりますけれども、創世記一章一節はソロモンの時代、すなわち紀元前十世紀頃に書かれたとぼくは考えております。なぜならば、イスラエルを王国として経済的にも軍事的にも反映させたソロモン王が宗教によって国を統治するために、民族宗教を体系化し、神殿を建築し、その中でモーセ五書を編ませたと考えることが最も筋が通っていると思うからです。
イスラエルを構成していた十二部族の中で、ユダ民族こそが神から選ばれた民族であることを主張するために、神殿に集めた学者たちにソロモンは創世記を編纂させたのだとすれば、先祖たちのすべての物語が、ソロモンを讃える物語に集約するのは当然です。そしてそれは天地を創造なさった神の選びによるのだと主張しているのです。
創世記一章一節は、ソロモンが自己保障するために書かせた言葉にすぎません。
【架空の神】
「初めに、神は天と地を創造なさった」という言葉は、ソロモンを支えるために創った神概念です。そこに登場させられている神は人間の思考が作り出した架空の存在です。
支配者が自分を権威づけるために想像した神を利用して、宗教によって民衆の信仰心を支配しようとしたのです。
何の前触れ(まえぶれ)もなく、突然に神が登場して、天と地を創ったと言うのです。そんな傲慢な神がいるでしょうか。その神が自分を王に立てたと言うのです。たとえ、その言葉が洗練された力強い言葉であっても、支配者ソロモンが書かせた言葉ですから、この言葉によって洗脳されている人が多いことを見過ごしにはできません。この言葉は、天地創造の神の言葉などではなく、支配者ソロモンの勝手な言い分なのですから、無批判に信じてはならないのです。
このような支配者の試みは、人間の思考にとても適合していたのでしょう。民衆の心を支配する道具として作り出された概念の神は、世界中の民衆の心に住み着いているようです。
神の命令に従うのは良いことで、逆らうことは罪であるという、一見まともそうな思考がほとんどの人に影響を与えていることが問題なのです。
この思考を使うことによって、人を思い通りに操縦できるのだとすれば、これほど恐ろしい言葉はありません。
【ぼくたちは】
確認できないもの、論拠を示せないものを突然に持ち出して「初めに、神は天と地を創造なさった」という言葉は、他の可能性を許さない暴力的な言葉ですから、こんなことばを受け入れてはなりません。
神は初めからいませんでした。創世記の神はソロモンが(人が)作りだした概念です。
天地創造の場面から始まる創世記一章一節の言葉は、支配者ソロモンが自分のために創った暴力的な言葉です。人は皆、このような人工的な神の概念に囚われている現状から自由になる必要があるとぼくは考えています。
天地創造のような出来事を想像し探究するのは、物理学者にでも任せて、ぼくらは、創造神などいない人間の社会で、人間同志の関係を築いて行くことにいたしましょう。