説教の題名を押して下さい

「演出で既成概念を壊す」20240526

8863836F-41DF-481B-9F95-E6E665F2426D.jpeg

「演出で既成概念を壊す」20240526

聖書 マルコ福音書 二章 十三節~十七節
 
 先週、中風(ちゅうぶ)の男をイエスが癒した奇跡物語のような記事について話しました。あれは奇跡ではなくて、イエスが企画した世界初のワイヤーアクションを使ったパフォーマンス(演劇表現)で奇跡ではないとぼくは言ったのですが、ぼくの意図は伝わらなかったようです。自然法則を無視した奇跡など起きない、と理解しているぼくから見れば、先週の物語は、イエスが練りに練って企画なさったパフォーマンスだとしか思えないので、その理由をもう一度確認しておきます。

 

【イエスの企画】

 四人の男が担架(たんか)か戸板のようなものの四隅にロープを結び付け、その上に一人の男を載せて、イエスがおられた家の屋根を剥がして吊り下ろしました。すると、イエスは、自由に動けないように見える男に向かって、皆に聞こえるように「君の罪は赦される」と言ったのです。

 これは、その場に居た律法学者たちを驚(おどろ)かせるためにイエスが語った台詞(セリフ)だとぼくは理解しました。当時の宗教社会では「人間が罪を赦す」ことなど誰も思いもしないことだったからこそ、イエスは自分の責任で「君の罪は赦される」と言ったのです。人間にそんなことは許されていないと信じ込んでいる皆の批判が絶頂に達したのを見極めた上で、イエスは「人の子は罪を赦す権能を持っている」と付け加え、それを証明するかのように、「ぼくは君に言う。起きて寝床(ねどこ)を担いで家に帰れ」と男に言ったのです。動けないはずの男は、言われた通り、起き上がり寝床を担いで出て行ったのです。イエスは自分が居た家全体を劇場に見立てて、この一部始終を企画、演出したのだとぼくは先週言いました。

 ところが、イエスが演劇を企画なさっただなんて聞かされても、多くの人は、受け入れられなかったようです。それどころか、これは中風の男がイエスによって癒やされた奇跡なのだ、という思いが強くなったようです。

 そこで、木曜日の聖書楽講座の場で話し合ってみました。寝たきりであった中風の男が、突然起き上がって、すぐに寝床を担いで歩き出すなんて、現実的に考えて、無理だと皆が感じていることが判りました。確かに、一週間寝込んだだけで、急に立ち上がれません。一ヶ月も入院した人が急に立って荷物を担いで歩き出すなんてことも不可能です。そうだとすれば、歩ける人が中風の男を演じていた、と考えるのが妥当だという話になりました。

 

【演劇を企画した理由】

 イエスが芝居を演じさせたからといって、イエスを、人を紛らわすペテン師だといっているのではありません。伝統的な宗教が作り上げた「人を赦せるのは神だけだ」という宗教教義に対して、「人を赦せるのは人だ」という事実を伝える手段として、イエスはパフォーマンスを企画したのだとぼくは言いたいだけなのです。イエスがこんな方法を考え出さなければならなかったのは、イエスのセリフを直接的に会話の中で言うことが許されない社会だったからです。

 戦時中の日本では芝居や映画や出版も検閲があって、政府を批判することができなかったように、当時の宗教教義に反する表現をすることは許されなかったのです。「人が人を赦せる」なんて、辻説法をしただけでも牢獄行きだったでしょう。だからイエスは、大衆を巻き込んで、癒しの奇跡だと言い逃れることもできるような仕方のパフォーマンスを通して自分の考えを表現したと思います。

 言いたいことを直接言葉にすることができない社会で、芸術家が絵画や彫刻や音楽によって、あるいは文筆家が時代を超えた小説を書いて自己表現することはよくあります。イエスは庶民の只中で、あれは奇跡だったと皆が言い逃れできるような演出によって自己表現したのだと思います。

 こんなぼくの解釈は、伝統的な説教しか聞いたことのない人には、ぶっ飛びすぎて理解できないでしょうが、イエスご自身の宣教方法がそれほどぶっ飛んでいたのだと理解いただければ幸いです。

 

【生活そのものも演出】

 さて、今日は先週に続く箇所です。イエスが再び湖のほとりに出て行かれると、前日のイエスのパフォーマンスを見た人や、噂を聞いた人々が群がってきたのは頷(うなず)けます。人々が集まった頃を見計らって、イエスは徴税所に座っていた男を招きました。レビという名で紹介されていますが、マタイ福音書はマタイ(九章九節)と呼んでいます。徴税人は占領国ローマの手先になって税金を徴収していたので、いわば国民の敵のような存在として嫌われていました。どこかの国会議員のようです。そんな徴税人にイエスは声をかけただけではなくて、彼の家の客人になったというのが今日の場面設定です。

 徴税人の家で食事の席に着いているイエスの元に、徴税人仲間やその他の罪人も集まって来て、一緒に食事を楽しんでいる様子を見た厳格な律法学者は「なぜイエスは徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちに批判の言葉を告げたのでした。これを耳にしたイエスは「医者を必要としているのは丈夫な人じゃなくて病人だ。ぼくか来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くためである」と言ったのだそうです。このままの意味に受け取ると、自分を医者に喩えているイエスが傲慢(ごうまん)に思えます。また、罪人を招くために来たという言葉からは、イエスは共に食事している人たちを罪人だと認識していたように聞こえます。結局イエスも差別者なんだと思えるような発言です。しかしイエスの本心はそうではないでしょう。

 当時の社会から罪人だと認定されて、社会から、除け者にされている人を招くために来たのだという意味に違いありません。

 

【ぼくたちは】

 隣国で罪人であった者が日本では罪人でなくなったり、その反対もあることから判るように、罪の判断基準は場所や時代によって変わります。つまり、罪は絶対的ではなく相対的な概念です。ですからイエスは、律法学者たちが罪人だと決めつけている人を招くために来たのだと言って、律法学者たちの罪概念を批判したのです。これも既成宗教の教義に反するイエスの行為だったのです。このように、イエスは既成概念を壊すために、さまざまな方法を駆使しました。聖書の字面(じずら・表面的な意味)を読むだけでは、イエスの意図は理解できないでしょう。ぼくたちは既成概念を壊しつつ、イエスが伝えようとなさったことに耳を傾けることによって、イエスが本当に伝えようとした大切なことを、素直に読み取ることができる者でありたいと願っております。

1
Today's Schedule
2026.10.26 Monday