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「悪霊憑(つき)は正統派のふりをする」20240428
「悪霊憑(つき)は正統派のふりをする」20240428
聖書 マルコ福音書 一章二十一節〜二十八節
【今日の聖書の箇所】
『一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に穢(けが)れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、穢れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が穢れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」』
【ジョークのようなマルコの言葉】
今日の聖書の前半は先週も読んでいただきましたので、先週に続く話をします。修行を捨てて荒れ野から出てきたイエスは二人の漁師を仲間にして、その後さらに二人の漁師を仲間に加えてから、安息日に街の会堂に入って行きました。
安息日の会堂には、礼拝をするために、信心深い人々が集まっていたはずです。そこでイエスは奇抜な行動に出ました。頼まれもしないのに勝手に自分の教えを語り出したのです。
昔からの説教では言われなかった言葉で言いますと、イエスは、非常識な行動をしたのです。
イエスが非常識だったことは、ぼくたちの感覚でも判ります。たとえば、この場に、三十歳そこそこの知らない若者が入って来て、自分の考えを語り出したとすればどうでしょう。無礼者だと思って、やめさせますよね。当たり前に考えて、それと同じようなことをイエスはしたのです。
安息日に立派な信者が集まっている会堂に突然現れた若者が、演説し出したなんて、全く無礼な話です。マルコはそんな情景を描いたのです。
イエスを神の子だと信じ込んでいるキリスト教徒は、イエスがなさったことには深い意味があって全てが素晴らしいと思っているようです。イエス様だから何をしてもいいんだと思ってきたでしょうが、そんなわけありません。イエスを神の子と告白しているのは、イエスの死後に結成された教会の信者だけです。聖書を素直に読めば、当時のイエスは、田舎から出てきた、ただの若者に過ぎません。マルコの主張を理解するためには、この場面設定を知っておく必要があります。
その上で、マルコは実際に起きたことではなく、「すごい教えをなさったイエスに、皆が感嘆の声を上げた」かのように書いたのだと思います。マルコはなぜこのように表現をしたのか。その理由を考えて判ったのは、話を読んだ人全員が「そんなはずないだろう」と気づける程度にはっきりしたジョークを描いたということです。このからくりが理解できるとマルコの面白さが判ります。
【人々はイエスの教えを馬鹿にした】
「どこの馬の骨かわからん若造が、まるで律法の専門家を超えた権威者であるかのように話してるじゃないか」と、会衆たちは非常に驚いた、というのは感嘆したのではなくて、実際は嘲(あざけ)って馬鹿にしたという意味でしょう。
会堂に入ってすぐに権威者のようにお教えなさったイエスを誉める人などいません。
ぼくたちの現実の視点から考えれば判ります。知らない人が偉そうに話し出したとすれば、人々はいい意味で驚いたのではなくて、「偉そうに話すこの若者は何者なんだ。何を言ってるんだ」と、呆れたのが真相じゃないでしょうか。
ここでもう一度言っておきますが、マルコはこういう現実的な話を、機知に富んだユーモア感覚で、わざわざ逆の表現で書いたんだと思います。現実社会では馬鹿にされ呆れられたのだけれども、そんなイエスの教えこそが大切だったんだよ、という意味を込めているんでしょう。現実を直接に非難することができない民衆が、お笑いや演芸の中で社会を批判するのと同じような手法が取られているように思います。これに続く物語の進展でも同じような表現方法が採用されていると考えれば、もっと面白いことが判ってきます。
【会堂の中の悪霊憑(あくれいつき)の男?】
ぼくがお伝えしている解釈が、伝統的な解釈とあまりにも異なっているために、まともに受け取ってくださる方は少ないです。牧師の格好をしたコメディアンが説教を真似てブラック・ジョークを飛ばしているのだろうと感じた方もいます。
ぼく自身は大切なことを言っているつもりなんですが、なかなか伝わりません。引っかかる部分に反発してくる人がいるだけで、隠された大事な事実に気づかないまま、聖書を読んでいる人が多いからでしょう。
カファルナウムの会堂の人々は、イエスを馬鹿にして取り合わなかったという事実を、こんな話でマルコは表したのだと、ぼくは考えています。
先ほども言いましたように、知らない若者が急に入ってきて聞いたこともない内容で突然に説教しだしたら、ぼくがまずその人の正面に出て、その人を制止します。
今日の聖書でも同じような情景が描かれているのです。一人の男がイエスに立ちはだかって「ナザレのイエスとやら、我々にはかまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かったよ。君は神の聖者さまなんだろ。」とでも言ったんでしょう。面白いのは、ただの男ではなくて会堂の中にいた悪霊に取り憑かれた男がイエスを制止したと書いてあることです。イエスを制止するために、登場すべきは、会堂の責任者です。そうだとすれば、マルコは会堂長を悪霊憑と呼んでいることになります。マルコ三章二十二節では律法学者がイエスを悪霊憑だと呼んでいるように、互いの敵を悪霊憑と呼んでいたんでしょう。とにかくイエスは悪霊憑から悪霊を追い出したと書いたマルコが本当に言いたかったのは、会堂にいる人々は悪霊に取り憑かれているようだから、イエスの話を真剣に聴いて、正気になりなさいということです。
【ぼくたちは】
この物語を通してマルコは、当時の教会の中にいる人々に対して、イエスの話を真剣に受け止めて悪霊を追い出してもらった人のように正気に戻りなさい、と言っているのだと、ぼくは受け取りました。またこれは同時に、正統を自負している現代の教会にも投げかけられているメッセージだと思います。さらに場面を代えれば、国会の中にいる悪霊憑から、イエスのようにぼくたちが悪霊を追い出さなくてはならないと語りかけられているように思います。