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「石破茂総理は辞めない」20241103

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「石破茂総理は辞めない」20241103

聖書 マルコ福音書 十一章二十七節~三十三節

 

 自分が仕掛けた選挙で大敗してもリーダーを辞めない権力者がいます。主権者である国民の支持を得られなくても自分で権力の座に留まり続ける石破茂総理の神経の太さは大したものです。権力というものは自分で奪い取るものなのかもしれません。そんな権力者に抑え込まれないで、自由民主党の中から権力を奪える人は今はいません。

 権力による支配構造に真正面から立ち向かえば、潰されるのは確かですから、皆、虎視眈々(こしたんたん・虎が獲物を狙っている様)と機会を窺(うかが)っているのかもしれませんが、それほどの迫力を持っていたのは石破茂総理ぐらいです。石破さんは真正面からじゃなく背後から狙っていました。その知恵は聖書から学んだのだと思います。

 石破茂は幼少の頃から母和子さんに連れられて日本基督教団鳥取教会に通い十八歳で洗礼を受けていることから生粋(きっすい・まじりけのない)のクリスチャンといえるでしょう。母方の曽祖父は新島襄の愛弟子金森通倫(かなもり みちとも)で、日本キリスト教団岡山教会の初代牧師を勤めており、救世軍やホーリネス運動にもかかわりがあるようです。すなわち、イエスの生き様や苦難については十分に知っており、イエスのように真正面から伝統的なユダヤ教に対立すれば殺されることは百も承知だった。権力は遠回りして取ることは聖書から学んだ。このように、神様のおかげで手に入れたと信じている権力を放すはずないのです。

 

【イエスは石破茂の反面教師】

 石破茂総理のお手本になったイエスは、殺されることを承知で権力に真正面から挑んだ人ですから言わば反面教師でした。イエスの周りには下層の庶民しかいなかったので立場も反面です。

 イエスは、殺される少し前、ユダヤ教の過越の祭りに合わせて首都エルサレムから六キロほどのベタニア村に宿泊していました。ベート・アーニアつまり「嘆きの家」という名が示す通り、伝染病患者の隔離村であったと考えられています。そのような村からエルサレムに入城したイエス一行は二日目に神殿の境内で、両替人の台や鳩を売るものの腰掛をひっくり返し、彼らを追い出そうとし、「君たちは神殿を強盗の巣にしてしまった」と言って祭司長や律法学者たちを真正面から非難しました。

神殿経済に対してイエスが抗議行動したその日の内に、普段は仲が悪かった祭司長や律法学者たちは「どのようにしてイエスを殺そうか」と談合しております。(マルコ十一章十五節〜十九節)

次の日、神殿の境内でイエスを見つけた祭司長、律法学者、長老たちは「何の権威で、こんなことをするのか。そんな権威を誰から与えられたのか」とイエスに詰め寄ったのです。このように問うた人々は自ら権威に弱い人です。どの大学を出たかどんな役職に就いているかを重要視する人です。何かの権威に頼る人は自分の権威を認められない人です。

 

【権威の下に安全はない】

ユダヤの指導者たちは、支配者であったローマの皇帝の権力と、ユダヤの自治権を与えられていたヘロデの権力に守られて、自らが権力者のように振舞っていました。しかし七十年にエルサレム神殿が破壊されたことでわかるように、権威の下にいても安全でないことは確かです。

神の権威の下で生きているつもりの指導者たちに対して、「ヨハネが施したバプテスマは、天の権威か?人の権威か?」とイエスは問い返しました。「天からだ」と言えば「なぜヨハネを信じなかったか」と言われるだろう。「人からだ」と言えば群集が騒ぐかもしれないと思った指導者たちは、即答できませんでした。彼らの権威は名ばかりで、上をも下をも恐れているのですから滑稽です。

当時のユダヤの指導者は、イエスを軽蔑しているのですから「そんなこと判らん」という程度に答えたんでしょう。それに対して、イエスも「それなら、ぼくも言いません」と切り返しております。

 

【イエスは神の権威を利用しなかった】

権力で物事を解決するような思想はイエスにありません。「神」を最大の権威として持ち出すような卑屈(ひくつ)な真似をイエスはしませんでした。

近頃の侵略戦争で解る通り、キリスト教の神を持ち出しても、アッラーの神を持ち出しても、神の名による聖戦をうたい文句にしてる点ではどちらも同じです。対峙している両者が神の権威の下で戦争しているのですから矛盾しています。神の名を利用している人間はいるけれども、人に利用されている神なんかどちらにもいないのです。

指導者は、庶民を納得させるために、神を持ち出したに過ぎません。今日の聖句にあるように、彼らが恐れた群集の反感を買わないために、神の名と神の権威を利用したに過ぎません。群衆を恐れるあまり、権威により頼む生き方が権威主義です。

 

【イエスは権威に従わなかった】

マタイ五章二十二節に「しかし、わたしは言う・・・」というイエスの言葉があります。「律法で命じられていることはあなた方が知っている通りである。しかし、わたしは言う・・・」とおっしゃったイエスは律法にも縛られず、自立していたのです。

権力者の権威に頼らず、律法の権威にも頼らずに、「わたしは言う」とイエスは言いました。要するに、何も恐れず何にも仕えていないという生き方を示したのです。イエスは、自立した人間として生きていたことが判ります。これが最大のイエスの特徴です。人とは本来そういうものだ、というのがイエスの示した生き方です。

 

【ぼくたちは】

 神の権威に頼ることを教えられてきたぼくたちは、自分を見失い、他者の権威に縋(すが)ろうとしてきたのではないでしょうか。

 しかし、いくら偉大な権威に頼ったつもりでも、その権威を認めない人の前では何の力もありません。権威とはそれほどあやふやなものです。そうであるにもかかわらず何かの権威に従っているとすれば、従わされているということです。権威の命令で犯した罪でも、実行犯は責任を追及されます。結局はその権威を選び取った自分に責任が回ってくることを忘れてはなりません。

 イエスは、だれに命じられた訳でもなく、自分がそうせずにはおれなかったからユダヤの指導者を批判し抗議行動しました。権威に取り込まれない自立した人間でありたかったからでしょう。

何の権威かわからない誰かの下で苦しめられていることをやめて、自立した自由な者になるように、とイエスは生き様を通して示したのです。

 石破茂総理のようになれば良いなどとは言いません。なぜなら、彼は他人を自分の権威に従わせようとしているからです。そんな権威に黙って従わない自分を見つけて、自分の権威で自立する民衆が立ち上がって来ることを願っています。

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