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「罪の温床の律法を捨てる」20241006
「罪の温床の法律を捨てる」20241006
聖書 ヨハネ福音書 八章一節~十一節
しばらく旧約聖書を続けましたので、新約聖書のイエスの福音に戻ります。今日取り上げるヨハネ福音書八章一節〜十一節は、何度も取り上げてきました。なぜなら、イエスの福音の中心だからです。
聖書を神の言葉だと教えている教会は、聖書の全てをほぼ均一に大事だと教えます。聖書を初めから終わりまで、通読することを求める教職者も多いはずです。しかし、どこも同じように重要だとは言えません。たとえば、新約聖書の後期に書かれた手紙の多くは、当時の教会の運営について語っていますが、イエスが語った福音に添わない考え方さえ伺えます。全てを満遍なく(まんべんなく・平均的に)教えれば、信者が混乱するはずです。
だからぼくは、イエスがお伝えになった福音に集中しています。イエスを理解するには、イエスの生き様を直接見るに限るので、福音書を題材に選ぶことが多いのです。中でもマルコ福音書を最も多く読む理由は最初に書かれた福音書だからです。マタイやルカよりも、ざっと二十年ほど早く書かれました。マルコの記事全部をマタイとルカが採用していることから、マルコが他の福音書の手本になっていたと思われます。しかし、マタイもルカもマルコ福音書が気にいらなかったのでしょう。削ったり、表現方法を変えたり、独自の資料を追加しています。マルコとマタイとルカ、三つの福音書が似ているというので共観福音書と教えられましたけれども、マタイもルカも、マルコの主張に異議があるから、独自に福音書を書いたのです。それぞれの著者が独自の視点で書いているのですから、実は、似て非なるものです。とにかく、最初に書かれたマルコ福音書が最も素朴であるところに魅力を感じるので、ぼくはマルコ福音書を中心に説教しました。読む場所をあちこち変えると、頭が混乱するので、マルコ福音書をまず頭に入れてもらいました。その後、たまに他の福音書を読むと「なんか違う」という反応が出ました。こうして、違いに気づくことが大切なのです。
ちなみに、今日選んだヨハネ福音書のイエスは、自分のことを神の子だと主張して、偉そうな口調で語るので、ぼくは好きじゃありません。そうであるにもかかわらず、この箇所を今日取り上げたのは、この部分にはイエスの福音の特徴がくっきりと描かれているからです。ヨハネ福音書の他の部分から浮きあがっていることや、古い写本にこの部分がないことなどからヨハネ福音書の著者が書いたものではなくて、全く独立した物語がここに挿入されたことが判ります。お手持ちの聖書に〔 〕が付けられていますのは、古い写本にはなかったという意味です。とにかく、イエスの生き様を見ましょう。
【宗教が罪の自己認識を植え付けた】
民衆を罪人扱いしないイエスは危険人物とみなされ、宗教指導者から命を狙われていました。
イエスから律法違反の証拠を引き出そうとして、律法学者やファリサイ派(分離派)が、不義密通の現行犯で捕らえられた女を連れて来て、「先生様、不義密通をした女は、石で打ち殺せとモーセの律法にありますけれども、あなたはどうしたらいいとお思いになりますか」と問いかけました。
即答を避けていたイエスに専門家たちは、しつこく問い詰めたので、ようやく身を起こしたイエスは「君たちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石をなげなさい」とだけ言いました。
【専門家たちは問いを差し戻された】
「この女をどうするんだ」とイエスに詰め寄った専門家たちに、イエスは問いを打ち返しただけです。
律法によれば、この女は石で撃ち殺すことになっています。さっさと「石打ち」にすればよいのですが、律法の専門家たちはそれもできません。律法に従えば、女と一緒にいた男も石打ちにすべきだったからでしょう。彼らも律法に照らせば、大なり小なりなんらかの罪を犯していると思っているのです。そういう罪意識を利用して、イエスは、「まず罪なき者が」という一言だけを付け加えて、女への断罪を人々にまかせました。自分が罪人だという自己認識が植え付けられていた人々は誰も「私には罪がない」と言えなかったのです。全員が罪の呪縛に囚われていたから、人々は自己評価によって、年上の者から順にその場を立ち去ってしまいました。このように、互いの罪を告発させ合い、人間関係を分断する律法こそが罪の温床なのです。
【人が人を裁くことはできない】
当時の宗教者といえども、神に成り代わって、直接に他人を審判する権威はありません。神話の神が下さったことになっている律法に則しているかどうかを判断することができる程度です。たとえその程度だとしても、他人を審判する律法を運用できる人はいません。人々は、この女を断罪して罰を与え得る身分じゃないことを悟って、その場を離れて行ったんです。
【イエスの言葉に集中させる】
まるでスポットライトを浴びるように、舞台の真ん中にイエスと女だけが映し出されます。この場面設定は、ヨハネが好んで使うものなので、この物語がヨハネ福音書に差し込まれたのかもしれません。とにかく、イエスと女に読者の意識を集中させてからイエスの言葉が紹介されます。イエスは女に向かって「だれも君を断罪しなかったのか。ぼくも君を断罪しない。行っていいよ。」とだけ言いいました。人はみな罪人であるという前提(罪の概念)を、刷り込まれ、仲間同士で内部告発させられているだけなのです。
しかし、イエスはもちろん、この女を断罪しませんでした。ただし、「赦す」と言ってもおりません。この場面は「罪の赦し」と関係ないのです。
互いに罪を告発する生き方をイエスはしなかったのです。これがイエスの生き方です。これは宗教を利用して全ての人の罪を咎(とが)める全ての宗教と支配層を拒否する生き方です。このようにイエスの福音は罪による呪縛(じゅばく・身動きできないようにするまじない)から人々を解放することなのです。
【ぼくたちは】
律法があなたを罪人だと認定しても、ぼくはあなたの罪を認めない。あなたは罪人ではないとイエスは言って、罪を作る律法を拒否したのです。「他人」だけでなく「自分」を律法によって断罪する必要もありません。むしろ、人間関係を分断する律法主義の組織を解体する意識が必要なのです
イエスがこの女に「君の罪を認めない」と宣言した内容と、全ての人に罪人だと認めさせようとするキリスト教の教えは、全く逆です。
さて、あなたは何を大切にしますか。ぼくはキリスト教の教義よりも、イエスの言葉を大切にします。そうすれば全ての人が罪の呪縛から解放されるからです。